「憂欝感及び麻痺と痙攣」

2020.05.10 Sunday 06:44
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    「憂欝(ゆううつ)感には、種々の原因と種々の症状があるが、最も多いのは頸部及び肩の凝りに因る事である。
    これは、その項目にあるごとく、凝りの圧迫によって脳への送血が減少し、脳貧血になる為である。
    ここに面白いのは、幼児が常に機嫌がわるく憤(むず)かる事で、医家においても、原因がさらに判らないので困難するのであるが、それらは大抵、肩が凝っているのである。
    幼児のくせに肩が凝るとは不思議に思うであろうが、事実であるから致し方ないのである。
    この場合、肩を治療するや、たちまち機嫌が治り、普通状態になるに察(み)ても明かである。
    又前頭部及び後頭部等に毒素があり、その浄化作用の微熱が常にあるため憂欝の原因となる事もある。
    次に、胃の付近に毒素があり、その浄化作用の微熱に因る事もある。
    そうしてこの症状の原因としては薬毒が多いが、稀には霊的原因もあるから、これは霊的病気の項目に譲る事とする。
    次に、麻痺は種々の原因と症状があって、最も多いのは脚気であるが、これは脚気の項目に譲る事とする。
    その他の麻痺としては、注射の原因による薬毒(これは手指に多いのである)と手術後疵(きず)が治癒してから、その付近に麻痺のある事がある。
    これらはいずれも放置しておけば時日を経るに従って僅かずつ自然治癒するものである。
    又、中風が原因で局部的に麻痺する事がある。
    これは容易に治癒し難いものであるが、まれには自然治癒するものもある。
    次に、痙攣には二種の原因がある。
    一は、最も急激な浄化作用であって、それは急性高熱の場合で特に脳疾患に多いのである。
    又、胃痙攣、腸痙攣等も急激の浄化作用である。
    そうして、幼児の痙攣の場合、その苦悩の強烈なる為、危険をさえ感ずるのであるが、痙攣が致命傷となる場合はほとんど無いといってもいいので、大抵は時間を経れば恢復するものである。
    次に、今一つの原因は、霊的であるからその項目に説く事とする。」 (「明日の医術 第2編」より)

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    「眩暈及び不眠症」

    2020.05.09 Saturday 05:52
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      「眩暈(めまい)は非常に多い病気であるが、医学では全然不明とされている。
      しかし、この原因は、実に簡単明瞭である。
      眩暈には二つの原因がある。一つは、右側後頸部延髄付近に毒素の溜結があってそれが眼球へ送流する血管を圧迫するのである。
      即ち眼が物体を視るという事は、視神経の活動であるが、その活動のエネルギーは、絶間なく送流する血液があるからである。
      しかるにその送血管が、毒素固結の為圧迫される場合送血量が減少するので、その血量減少の刹那(せつな)視神経が弱り、視力が薄れるという訳である。
      右の毒素の固結は、第一浄化作用によって固結が強化されるのであるが、その作用が不定的であるため、その都度視力が弱り、又、強まるというように、刹那的間歇(かんけつ)的である為それが眩暈の症状となるので、この原因が最も多いのである。
      今一つは、前額部から眼球付近に滞溜する毒素の浄化作用として、常に微熱が発生するのである。
      その微熱が視力を動揺させるのでそれはちょうど、発熱や頭痛の際、又は酒に酔った時、又はストーブや焚火の火に直射した時眩暈するのと同様の理であるが、これは至って少ないのである。
      次に、不眠症であるが、この原因も簡単明瞭である。
      これは、眩暈の原因とほとんど同一であって、眩暈の固結は間歇的であるが、これは、そういう事がなく、定常的に血管を圧迫し、脳貧血を起すのであって、この原因による脳貧血は神経過敏症になり、それからそれへと、物を考えがちになるのである。
      故に、私が治療の頃、右の溜結毒素を溶解するにおいて、適確に短時日に快癒し、例外なく全部成功したのである。」 (「明日の医術 第2編」より)

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      「浮腫及び盗汗」 

      2020.05.08 Friday 06:18
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        「浮腫(むくみ)は、その原因として二種ある。
        それは、腎臓及び膀胱の支障である。そうして腎臓が原因の場合は、腎臓疾患の説明中にもあるごとく腎臓萎縮に因る余剰尿が原因であって、軽きは局部的、重症は全身的に及ぶのである。
        又、浮腫が左右いずれかに特に多い場合がある。
        それは、浮腫の多い部の腎臓が萎縮しているのである。そうして浮腫のほとんどは、腎臓萎縮が原因であるが、稀には膀胱が原因である事もある。
        それは輸尿管末又は膀胱から尿が尿道へ通過の口許に粒状膿結がつかえる場合、尿の通流に支障を来し、浮腫の原因となる事がある。
        しかしいずれにせよ両者共、毒素溜結を溶解するにおいて、容易にしかも完全に治癒さるるのである。
        ここに面白いのは慢性浮腫である。
        これは急性は直ちに判明するが、慢性に到っては知らず識らずの間に溜るので、医家は勿論、本人さえ気がつかないのである。
        そうして慢性浮腫は、漸次的に数年又は数十年に及んで、皮下に凝結するのであって、肥満した人に最も多いので、かくのごとき人は、病的肥満であるから、常に故障が起り易いのである。
        それについてこういう滑稽な事があった。
        それは、女学生で非常に肥満ししかも固肥りで、一見体格優良者にみえるので、学校医健康診断の結果、その県下における模範健康者三人の中の一人に選ばれたのであった。
        しかるに、たまたま胸部に痛みが発生し全身的重倦(おもだる)く、腹部が脹り、腰が重いというので私のところへ来た。
        診査してみた所、驚くべし、前述のごとき全身的浮腫の凝結した肥満なのであった。
        それで治療の結果急激に尿量が増し、体重二貫目以上減じて、真の健康になったのである。
        かような症状は相当多いのであるから、健康そうにみえる体格の持主といえども大いに注意すべきである。

        又、浮腫の患者であっても、尿に蛋白のない場合、医家は、原因は腎臓でなく心臓にあるというが、これは馬鹿馬鹿しい程の誤りであって、心臓は尿とは関係がないのである。
        これらは蛋白のみによって腎臓病の有無を診断する為であって、無蛋白腎臓病の存在を知らないからである。
        右の外、局所的浮腫の場合がある。例えば一方又は両方の足の膝下又は手首等に、多くは急激に浮腫が発生するのである。
        これらは直接腎臓原因の浮腫と異り、多くは注射等のごとき薬毒溜結が浄化溶解した為で、これは簡単に治癒するものである。
        次に、盗汗(ねあせ)は、医学の解釈では、衰弱の為としてあるが、これも全然反対である。
        即ち、浄化作用旺盛の結果であるから、盗汗のない患者も、治療するにおいて盗汗がおこり、それから快復に向うに鑑(み)ても、浄化作用である事は事実である。
        又、老人には少く、青壮年に多いにみても右の理は瞭(あきら)かである。
        ついでであるから、発汗について述べてみよう。
        大体健康者程発汗が多いのであって弱体者は少ないか又は全然ないのが普通である。
        しかるに局部的発汗者がある。
        こういう人は大抵右か左の一方的であって、それはその側の腎臓が萎縮しているのである。
        それが為、常に軽微な尿毒がその部に集溜する。それが汗となって排泄せらるるのである。
        又、発汗すべき理由がなく不用意に発汗する人があるが、これも右と同様の原因で、病的であるのである。」 (「明日の医術 第2編」より)

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        「下 痢」

        2020.05.07 Thursday 07:47
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          「下痢は最も多い症状であるが、まず急性と慢性とに区別される。
          急性は、飲食物による中毒即ち「食あたり」が多いのである。世間よく、寝冷によって起るというが、これはほとんど誤りで、冷によって下痢をするという事は極稀である。
          食あたりの下痢の際、薬剤等によって止めるか又は反対にヒマシ油等によって排泄を促進させようとするが、これは不可であって、自然に排泄させる方が成績は良いのである。
          次に、急性下痢症に、食あたり以外に、俄然として起る頗(すこぶ)る猛烈な下痢がある。
          これは一日十回以上、はなはだしきは数十回に及ぶものさえあり、まれには度数をかぞえられぬ程で患者が意識出来ない程、水便を漏すものさえある。
          そうして血液が混入して腐肉が下るかと想われるような下痢もあるが、これらはことごとく膿や毒血の凝結したものが、猛烈な浄化作用によって排泄されるので、決して肉や臓器の一片だも排泄せられるのではないのである。
          こういう猛烈な下痢は、老人にはほとんどなく青少年に限るといってもいいのであるから、旺盛なる浄化作用である事は明かである。
          故に、放置しておけば必ず治癒するのである。しかるにこれら猛烈な下痢の場合、医家も患者も非常に恐怖し、停止せしめようとする。
          しかるに停止療法を行えば悪化するのが当然であって、その為、死を招く惧(おそ)れさえあるから注意すべきである。
          次に、慢性下痢があり、それが数ケ月ないし数ケ年に及ぶものさえある。
          医家は多くは、結核性となし、怖れて停止療法を行うが、これも非常な誤りで、事実は、腹膜に溜結せる膿が、緩慢な浄化作用によって僅かずつ溶解され、下痢となって排泄せられるのである。
          この膿は、腎臓萎縮による尿毒が、常に腹膜へ集溜するのであるから、腎臓を健全にしなくては、完全に治癒され得ないのは勿論である。
          しかしながら、非常に長年月放置しておけば、腎臓萎縮が自然に治癒されるので、腹膜も治癒され下痢も無くなるのである。」 (「明日の医術 第2編」より)

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          「不快感及び嘔吐」

          2020.05.06 Wednesday 06:31
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            「ここに、不快感といっても種々あって、その症状は一定していないが、重(おも)なる症状を記せば、嘔気、痙攣、悪寒、船車の酔、朦朧(もうろう)感、焦燥感等であろう。そうして最も多いのは嘔気であろう。
            この症状は、原因としては脳貧血に因る胃の反射作用と、高熱、食物中毒及び薬剤中毒、溜飲、幽門狭窄(ゆうもんきょうさく)等である。
            右の内、最初の三つは説明の要はあるまいから、後の三つについて説明してみよう。
            即ち薬剤中毒に因る嘔気は、薬液が胃の粘膜から一旦吸収されて、胃の周囲に浸潤滞溜したものが、時日を経て毒素となって胃に還元し、胃中に凝結する。
            それが浄化作用によって溶解し、嘔気を催し嘔吐するのである。その際嘔吐の液が服用した薬剤の臭いがするのである。
            次に、溜飲は胆汁の排泄であるが、これは、不断に胃中に流入しつつある胆汁が、食物の停滞又は薬剤の妨害に遇って、消化を援(たす)けるという役目に支障を来し、排泄嘔吐するのである。
            次に、幽門狭窄に因る嘔吐は、胃によって消化されたものが腸に流下する場合、狭窄の為通過し難いので、逆に上方に戻ろうとする。
            それが嘔気となるのである。故に、この症状は固形物は不可であるが、流動物なら嘔気が起らないにみて瞭(あきら)かである。
            それは、幽門狭窄に因る流下孔が狭くとも、流動物なら通過するからである。」 (「明日の医術 第2編」より)
             

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            「掻痒苦」

            2020.05.05 Tuesday 06:14
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              「人体における痛みの苦痛は、誰も知る所であるが、掻痒(そうよう)の苦痛は体験者でないと判り難いであろう。
              実に病的掻痒苦は、痛みに劣らぬ苦しいものである。
              この疾患の原因としては薬毒、然毒、食餌中毒の三種であって、その中(うち)薬毒におけるものから説いてみよう。
              まず、掻痒病として、最も一般に知られているものは彼の蕁麻疹(じんましん)である。
              この病気の原因のほとんどはカルシウム注射である。この注射を行った者は必ず多少の蕁麻疹発生を見るのである。
              注射後早きは一年位、普通二年三年、長きは五、六年を経て現われるものもある。
              しかるに、医療は蕁麻疹を治療する場合、カルシウム注射を行い、一時は多少の効果はあるが、時を経て必ず再発するのである。
              元来中毒的症状に対しては、その中毒の原因である薬剤を用うるにおいて、一時的効果はあるもので、彼のモヒ(モルヒネ)中毒患者が、モヒによって一時的苦痛を免れるという事と同様で、これは誰も知るところである。
              故に、蕁麻疹は、薬毒が浄化作用によって、皮膚面から排除せられるのであるから、ある期間苦痛に耐えて、放任しておいても治癒するものである。
              そうして蕁麻疹の症状は人によって種々あるが、いずれも掻痒苦が伴うから判り易いのである。
              又、アンチピリン中毒、ある種の注射薬等に因る事もあるがいずれも自然に治癒するものである。
              次に、蕁麻疹に似て非なるものに、一種の発疹的病気がある。
              蕁麻疹の粟粒的なるに対し、これは粒状がやや大きく、重症は豆粒大のものさえある。
              これは、軽症は局部的であるが重症は全身的に及ぶものもあり、掻痒苦はなはだしく、断えず稀薄なる膿汁を排泄し、稀には、膿汁が局部的に集溜(しゅうりゅう)腫脹(しゅちょう)するものさえある。
              そうして経過は頗(すこぶ)る長期間に渉(わた)り、早きは半年位より、長きは数年に及ぶものさえある。
              最重症患者においては、苦痛のあまり自殺を想うものさえあるという、実に怖るべき疾患である。
              そうして治癒後といえども、多くは局部的に残存し、全治するまでに数年を要するものである。
              この病原は全く陰化然毒であって、真症天然痘が急性であるに対し、これは慢性天然痘ともいうべきもので、種痘の為浄化を弱められたる結果である事は勿論である。
              故に、重症患者の最盛期における皮膚面をみれば、天然痘に酷似しているのである。
              次に、魚類中毒に因るものに、蕁麻疹的症状がある。
              これは、局部又は全身的に紅潮を呈し、発熱、発疹、掻痒苦があるが、二、三日で必ず治癒するのである。
              これらは勿論、食餌中毒で、腸に関係があるが、これを誤って、医家はカルシウム中毒による蕁麻疹へ対しても、原因は腸にありとなし、腸の療法を行うが、的外れであるから、何らの効果はないのである。」 (「明日の医術 第2編」より)

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              「痛 苦」

              2020.05.04 Monday 19:46
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                「痛苦即ち痛みなるものはいかなる訳であるかというに、前にも述べたごとく浄化作用の発熱によって凝結毒素が溶解され、液体となった毒素が、いずれかに出口を求めて、その方向に進まんとするその運動が、筋肉の神経を刺戟する。・・・それが普通の痛みの原因である。
                以上のような痛みの症状は、盲腸炎、急性腹膜炎、急性腎臓炎、頭痛、歯痛、中耳炎、リョウマチス、各種神経痛等、実に多種多様である。
                又、骨膜炎と名付けられている骨に関する痛みの原因は、骨膜に凝結した毒素が浄化によって溶解し、それが移動する場合、骨膜から筋肉へ進み刺戟するのである。
                又、骨膜の裏面にある毒結が、浄化溶解して表面へ滲出せんとして、骨そのものに極微な穿孔をする。
                その穴の数は毒素の量によって多少があるのである。
                勿論、その数の多いほど激痛である。肋骨カリエス、中耳炎、歯痛等その他骨髄炎といわれるものはそれである。
                この無数の穿孔ある場合、医家は骨が腐るというのであるが、それは誤りである。
                何となれば、毒素が溶解除去された後は、旧(もと)通り完全になるからである。
                次に、特殊の痛み、例えば、手指のひょう疽、足指とその付近における脱疽の痛み、痔瘻等の痛みは勿論、浄化作用による毒結の排泄であるが、これらは非常に猛毒であるから激痛である。
                これは第一浄化作用をまたずに、第一、第二、両浄化作用が同時に起るのであるから、浄化力旺盛な青年期に多いのである。
                これらの病気に対して、医家は漸次隣接部に移行腐敗するというが、これも全然誤謬である。
                私の多数の経験によれば、ある程度毒素が集溜すれば、それ以上増大する事は決してないのである。
                そうして、充分集溜腫脹(しゅちょう)して自然穿孔され、そこから膿汁毒血が排泄されて完全に治癒するのである。
                しかしながら、その症状は一見腐敗するごとく見ゆるので、医学においては、腐敗すると誤ったのであろうが、その為に切開手術を行い、一種の障害者たらしむるのである。
                繰返していうが、私の永年の経験によって、脱疽とひょう疽は、腐敗はしない事をここに改めて断言しておくのである。
                次に胃痙攣の痛みは別であって、これは、胃病の部で説いてあるから、ここでは略しておく。
                その他、火傷や負傷等もあるが、これは病気ではないから、時日の経過によって、必ず自然に治癒するものである。
                もし痛みが永続するか、治癒しない場合は、その原因は消毒薬等の為であるから、薬剤を廃して、患部を清水に洗うだけで自然治癒するのである。
                右のごとく、病気による痛苦には多種多様あるのであるが、その原因のほとんどが薬毒の為である。
                薬毒の種類によって、痛みや症状が異うのである。
                そうして私の経験によれば、漢方薬は広範囲である事と鈍痛が特色であり、洋薬は多く鋭痛で、稲妻型、針刺型、錐揉(きりもみ)型等が多く、又局部的であるのが、特異性とでもいうべきである。
                特に、注射の薬毒は激痛の原因となることが往々あるのである。
                次に、薬毒以外尿毒の痛みもあるが、これは多く軽痛である。
                又、然毒はほとんど痛みがないので、医学は先天性黴毒と思い誤ったのであろう。」 (「明日の医術 第2編」より)

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                発 熱

                2020.05.03 Sunday 16:55
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                  従って、病気発生するや発熱するという事は疾患部の凝結毒素を溶解せんが為、必要量の熱即ち火素を心臓が霊界から吸収するのである。
                  即ち心臓の鼓動は、霊界から火素を吸収するポンプ作用である。発熱時より先に、心臓の鼓動即ち脈拍が増加するのは、火素吸収が頻繁になるからである、
                  その際の悪寒は、浄化に必要な熱量を吸収する為、一時体温の方への送量を減殺するからである。
                  故に、下熱するという事は、毒素溶解の作用が終ったのである。
                  右のごとくであるから、心臓が一瞬の休みなく、霊界から火素を吸収する。…それが体温である。
                  又、肺臓も空気界から水素を呼吸によって不断に吸収しているので人体内の水分は、口から飲下する以外、肺臓の吸収によって得る量も頗る多いのである。
                  右の理によって人の死するや、瞬時に体温は去って冷却し、水分も消えて、血液は凝結し、屍(しかばね)は乾燥し始めるのである。
                  右を説明すれば、死と同時に、精霊は肉体を脱出して霊界に入るのである。
                  故に、精霊の火素が無くなるから、水分は凝結するのである。
                  言い換えれば火素である精霊は霊界に還元し、水分は空気界に還元し肉体は土に還元するのである。
                  次に、ここで注意すべき事がある。
                  それは、熱を量(はか)るに体温器を用いるが、医家も世人もこの方法は完全と思っているが、私からいえば頗る不完全である。
                  何となれば左のごとき理由によるからである。元来発熱の場合、その発熱の根拠は、実は一局部である。
                  しかるに世人は全身的と想っているが、それは大いなる誤りである。
                  私が治療の際、四十度位の高熱者を診査する場合、指頭位の固結の浄化作用が原因であるので、その固結を溶解するや、全身的に忽ち下熱するのである。
                  そうして強度な浄化作用は全身的に発熱するが、弱い浄化作用は局部的放射状であって、その局部の周囲(勿論大小はあるが)以外は無熱である事である。
                  従って、体温器を腋窩(わきのした)に挟む場合、その付近の病気、例えば腕の付根の毒結の浄化作用又は肋間神経痛等があれば有熱となって現われるが、その際離れたる股間、腎臓部、頭部等は無熱である。
                  故に、実際上、右の腋窩と左の腋窩によっても多少の差異がある事で、はなはだしきは五分位差異のある人がある。
                  右のごとくであるから体温器による計熱法は不完全であるというのである。
                  しかるに、私が行う計熱法は、いかなる微熱といえども発見し得らるるのである。
                  それは掌を宛(あ)つれば一分の十分の一の微熱といえども明確に知るを得るのである。
                  しかし、これは相当熟練を要する事は勿論であるが、普通一年位経験すれば何人もなし得らるるのである。
                  次に高熱に対して氷冷法を行う事がいかに誤謬であるかを説明してみよう。
                  即ち人体適正の体温は三十六度ないし七度であるという事は、その程度の体温が生活機能に適合しているからである。
                  しかるに氷冷をするや氷の温度である零度になるから、その氷冷を受ける局所の機能の活動は、著しく阻害せらるるのは当然である。
                  この理によって脳溢血、肺炎、窒扶斯(チフス)その他の高熱病に対し医療は必ず頭悩の氷冷を行うが、それが為頭脳は氷結状となるから麻痺的貧血状態に陥り機能の活動に支障を及ぼすので、本来の病気によらずして、氷冷の為に斃(たお)れる事が多いのである。
                  氷冷は、右のごとき悪結果を招くのみか、浄化作用を強力に停止すべきものである以上、これだけは絶対に廃止したいものである。
                  今一つ重要な事がある。それは下熱剤の反動作用である。
                  この事は恐らく専門家は固より世人は夢にも思わないであろう。
                  これはどういう訳かというと、ある病気に対して連続的に下熱剤を使用する場合、大抵一週間以上にわたると、反動作用が徐々として起る事である。
                  それは、下熱剤の作用に対し、反動作用が発生するのである。恰(あた)かもある物体を圧迫すると反撥力が起るようなものであって、下剤を用いる程便秘を起し、利尿剤を持続すると反って尿量を減ずると同一の理である。
                  故に、発熱するから下熱剤を用いる。下熱剤を用いるから発熱するというように繰返すにおいて最初三十七、八度の熱がついには四十度以上の高熱にさえなるようになるのである。
                  かくのごとき場合、医家は原因不明の熱として大いに困難するのである。
                  肺患者の執拗な熱は、右のごとき原因が頗(すこぶ)る多いのであって、下熱の目的を以て下熱剤を用い、その結果が反って発熱の原因を作るという事は、未だ気がつかない事とは言いながら、まことに恐るべきであると言えよう。」 (「明日の医術 第2編」より)

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                  発 熱

                  2020.05.02 Saturday 07:00
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                    「医学上、発熱の原因として今日まで種々の説が行われているが、今日一般的には、発熱中枢なる機能が頭脳内に在って、それが何らかの刺戟によって熱が発生するという説である。
                    又、四肢の運動による為と、肝臓及び腎臓から発熱するというのである。
                    そうして人間の体温なるものは、食物が燃焼する為に起るというのである。
                    右の説が真実であるとして、病気発生の際病毒が発熱中枢を刺戟して発熱するという事は、一体発熱中枢なる機能の性質と、それが刺戟される事によって、いかにしていかなる理由によって、熱を発生するのであるか、恐らく徹底的説明は不可能であろう。
                    何となれば、さきに説いたごとく発熱中枢なる機能は全然無いからである。従って、病毒の刺戟などという意味は成立たない訳である。
                    かような誤った説が生れたという事は、私の想像によれば、大抵の病気は発熱の際、頭脳に高熱があり、且つ頭痛が伴うので、発熱中枢が頭内に在ると誤認したのであろう。
                    故に、あらゆる有熱病に対して、頭脳を氷冷すればよいとしているのである。
                    又四肢の運動によって発熱するというのは、それによって温度が加わる為と、浄化作用発生の為の発熱に因る事を単純に推理したのであろう。
                    又、肝臓及び腎臓が発熱の原因というのは、大抵の人は、肝臓部と腎臓部は、毒結浄化の為、局部的微熱が常にあるものであるから、それを誤認したと想うのである。
                    又、食物の燃焼によって、体温が作られるという事ほど、実に嗤(わら)うべき説はあるまい。
                    食物が消化器内で燃焼するという事は、実に不可思議千万である。
                    それはちょうど、人間の体温をストーブと同じように推理したのではなかろうか。
                    即ち、食物の消化を石炭の燃焼のごときものと想像したのではないかと想うのである。
                    私の研究によって得たる発熱の原因を説くに当って断わっておきたい事は、恐らく前人未発の説であろうから、読者はそのつもりで充分熟読玩味せられたいのである。
                    そもそも、宇宙における森羅万象一切は三大原素から成立っている。即ちあらゆるものの生成化有は、この三大原素の力によらないものはないのである。
                    しからば、その三大原素とは何であるかというと、それは日、月、地である。
                    即ち日は火素の根源であり、月は水素のそれであり、地は土素のそれである。
                    そうしてこの火、水、土の力が経(たて)と緯(よこ)に流動交錯密合しているのである。
                    即ち、経とは天から地まで、太陽、月球、地球の三段階となっているのであって、日蝕の時、日月地が経に三段になっているにみても明かである。
                    即ち、天界は太陽中心の火の世界であり、中界は月球中心の水の世界であり、地は、地球中心の土の世界である。
                    次に、緯とは、吾々人類が棲息しつつあるこの地上そのものの実体である。
                    それはどういう意味かというと、この地球上における実世界は空間と物質との存在であって、物質は人間の五感によってその存在は知り得るが、空間は長い間無とされていた。
                    しかるに文化の進歩によって、空間は無ではなく、空気なる半物質(私は仮に半物質という)の在る事を知ったのである。
                    しかるに、今日まで空気だけと思っていた空間に、今一つ他の原素が存在している事を私は知ったのである。
                    それに対して私は、“霊気”というのである。もっともある種の宗教においては、霊界又は生霊、死霊、憑霊等の説を唱えたり、行者又は霊術師等も霊を云々し、欧米においても、霊科学の発達によって、霊と霊界の研究は相当進歩しつつあり、彼のオリヴァー・ロッジ卿の有名な著書「死後の生存」や、ワード博士の霊界探険記等の記録もあって、これらは相等信ずべきものであるが、私の研究の目的範囲とは全然異なっているのである。
                    そうして本来、物質の元素は土であり、あらゆる物質は、土から生じ土に還元する事は、何人もよく知る所である。
                    次に、半物質である水の原素は、月球から放散されて、空気に充満している。
                    しかるに霊気とは、太陽から放射される物質でもなく、半物質でもないところの非物質であるから、今日まで未発見であったのである。
                    故に、最も判り易くいえば、土が物質、水は半物質、火は非物質と言えるのである。
                    右のごとく、物質の原素が土で、空気の元素が水で、霊気の元素が火であって、この三原素がいずれも密合して、そこに力の発生があるのである。
                    これを科学的にいうならば、三原素なるものが、ほとんど想像も付かない程の微粒原子として、融合活動しているのが、宇宙の実体である。
                    故に、吾々の呼吸しているこの空間が、生物の棲息に適する温度や乾度、湿度があるという事は、火素と水素の融合調和によるからで、もし火素が無となり水素のみとなれば一瞬にして氷結すべく、反対に水素が無になって火素のみとなれば一瞬にして爆発し、一切は無となるのである。
                    そうしてこの火水の二元素が土と密合して、土が力を発生し、万物が生成化育されるのである。
                    この理によって、火は経に燃え、水は緯に流動するのが本性であり、火は水によって燃え、水は火によって動くのである。これを図に示せば、左のごとくである。
                    古(いにしえ)から、人は小宇宙といわれているが、右の理は、人体にも当嵌(は)まるのである。
                    即ち、人体における火、水、土は「心臓、肺臓、胃」…に相当するのであって、胃は土から生じた物を食い、肺は水素を吸収し、心臓は火素を吸収するのである。

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                    「神の経綸」

                    2020.05.01 Friday 05:43
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                      「そもそも宇宙とは何ぞや、それは無限大の空間の中に、太陽、月球、地球及び星辰が存在している事は誰も知るところである。
                      そうして吾々の住むこの地球こそ宇宙の中心であり、主である。
                      又日、月、星、辰は地球の為に存在し、地球は日月星辰によって存在するのである。
                      故に、その経綸を行わせ給わんが為に、神の代行者として人間なるものが造られてあるのであり又万物は人間の為に造られたのである事は言うまでもない。
                      従って、人間の使命たるや、実に重且(か)つ大であって、神の理想をこの地上に顕現せんが為に生れさせられたのであるから、それを自覚する事によって、真の人間たり得るのである。
                      この意味において、人間は自己本位の我欲に囚われたり、国家社会の進運にいささかなりとも背馳(はいち)するような事なく、惟神、神定め給える大君を現人神と崇め奉り、忠孝を本とし安逸(あんいつ)を卑しみ、各々の職域に奮励努力すべきであって、ここに到って始めて人間たる本分に適(かな)うのである。
                      特に日本人は世界に冠たる皇国の民であり、神の選民である事を自覚しなければならないのである。
                      そうして、主神の深甚なる御目的や、その御経綸は、到底人間の想像だも及び得べからざる事は固よりであるが、ただ御経綸の上において、神はその時代時代に必要なる人間を顕わしそれぞれの使命を遂行させ給う事は吾々といえども想像し得らるるのである。
                      勿論、英雄も偉人も聖賢もそれであり、又、戦争も平和もその為であり、かくしてこの地上は一歩一歩無限の進展を遂げつつあるのでその実相は、誰もが眼にも映るのである。
                      故に、いつ果つべくもなくみゆる大戦争や、大禍乱大天災も、その渦中にある間は暗澹(あんたん)たるものであるが、時過ぎ時来れば、又平和の光は射し初め、泰平を謳歌(おうか)するというようになるのであって、実に変転極まりないのが世界の姿である。
                      そうして古来からの歴史の推移を、心を潜めて冷静に観る時そこには一貫したしかも厳然たる…神の摂理と御目的が、朧気(おぼろげ)ながらも窺(うかが)い知らるるのである。
                      以上の意味によって、私は数年前、日本が世界を統一すると共に、東西文化を融合して成った新しい文化が日本から生れて、逆に世界へ拡充する事を予言した事があるが、今やそれが着々実現の時となって、最早何人といえども、明かに知り得る状態になったのである。
                      今戦いつつある大東亜の戦争も、支那事変も三国同盟も、五、五、三の華府(ワシントン)会議も、連盟脱退も、第一次欧州大戦も、日清戦争も日露戦争も明治維新も、その準備であった事が肯かるるであろう。
                      又、畏くも、遠きは神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の大神勅も、今日の為に発せられ給うた一大予言と拝察せらるるのである。
                      そうして、支那事変によって数年を費した事が、大東亜戦争に対する周到なる準備工作の為であり、南洋一帯の資源を米、英、蘭が二、三世紀にわたって開発した事もそれであり、大東亜戦争に全力を挙げて、後顧(こうこ)の憂なく戦い得るという事は、ソ連との中立条約の為と、盟邦独逸(ドイツ)が蘇聯をあれほどに打撃を与えたからでもあろうし、
                      五、五、三の比率によって、日本の海軍が猛訓練を行わざるを得なくなって、それが今日、赫々(かくかく)たる戦果を挙げ得る動機となった事等も、実に深甚なる神意でなくて何であろう。
                      全くあれを思いこれを億(おも)う時、日本をして世界の盟主たらしむべく、数千年前より神が深遠なる御経綸を行わせ給いつつあった事を拝察さるるのである。
                      実に一切は神の御意志によって動き、歴史とは神の経綸の道程(みちのり)にしか過ぎない事と思うのである。」 (「明日の医術 第2編」より)

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