「誤診誤療の実例」

2020.02.12 Wednesday 08:21
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    これは実際、私が手掛けた患者であったが、それは本年正月四日に、三十二歳の婦人が来たのであった。
    その話によれば、今度の月経が例月よりも日数が多く掛ったので、心配の余り某医師に診断を乞うた所「これは大変である。子宮外妊娠であるから、急いで手術をしなければ、生命に係わる」との事を言渡されたのであるが、念の為と、ともかく私の所へ来たのであった。
    私が査べた所、全然、外妊娠などの徴候はない。
    ただ僅かに、腎臓の下部に、些(いささ)かの水膿溜結があったばかりであった。
    それも二回の施術によって、痕方もなく治癒されたので、その夫人の喜びは一通りではない。
    正月早々大手術をされ、入院もし、その苦痛と費用と日数を無益に費消し、傷痕まで付けられなければならなかったのを、僅か二回で済んだのであるから、喜ぶのも無理はないのである。
    これらの事実を検討する時、外妊娠すべき位置より、三寸以上隔っている皮下に膿結があったばかりで、専門家として誤るはずが無い訳であるに係わらず、右の様な事実があったと言う事は、どうしても不可解と今も思っているのである。


    本年三十七歳になる某上流婦人が私の所へ来たのである。
    その婦人のいわく、肩の疑りと頭痛が持病であった所、最近、月経がいつもより日数が多かったので、某博士の診断を受けた所、「右側の卵巣が、左側のよりも三倍もの大きさに腫れている。
    それが原因であるから、早速切開して剔出しなければならない。
    頭痛や肩の凝りもその為である」と言うのである。
    しかし、手術が嫌さに躊躇している所へ、私の所を聞いて来たのである。
    私は入念に査べてみた所、卵巣は左右共異状なく、全然、腫れている形跡はないのである。
    又、頭痛や肩の凝りは、卵巣とは無関係で、別箇の病気である。
    何となれば、卵巣部へ手を触れない内に、肩を治療した所、頭痛、肩の凝りは即座に軽快になったのを見ても瞭(あきら)かである。
    そうして、四回の治療によって全治したのでその驚きと喜びは想像に余りあるのである。
    右の事実によって考うる時、異常なき卵巣を腫れてると言い、卵巣と関係のない肩の凝りを関係あるという、その誤診のはなはだしいのに至っては、実に驚くべきである。
    もし、その患者が私の所へ来なかったとしたら、健全である卵巣を剔出され、一生障害者にならなければならなかったのである。
    私は実に慄然として膚(はだえ)に粟(あわ)を生じたのである。

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    「医学は退歩したか」

    2020.02.11 Tuesday 08:24
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      しからば、いかにすべきが最善であるかという事である。
      それはまず風邪に罹るや、発熱を尊重して、そのまま放置しておけばいいのである。
      そうすれば、汚濁は順調に解溶排泄さるるから根本的に頗る順調に治癒するので、勿論、再発の素因は消滅さるるのである。
      これは実験するにおいて一点の誤りの無い事を知るのである。
      この理によってみても、結核激増の真因は、全く解熱剤がその第一歩である事が知らるるであろう。
      故に、解熱剤禁止と氷冷法廃止と風邪非予防だけを行う事によっても、恐らく結核患者は三分の一以下に減少する事は断言してはばからないのである。
      実に、医学が結核患者を作りつつあるという、信ずべからざる程の戦慄事が、国家の保護の下に公然と行われつつあるという事である。
      しかしながら、医学においても、一部の進歩は認め得らるるのである。
      それは、機械の巧緻化と療法の複雑多岐と、薬剤の多種多用になった事である。
      しかしながら、根本である病原を錯覚している限り、それらはただ人々を幻惑させるに過ぎないのであって、反ってそれらに没頭し、満足しつつ終(つい)に根本に遠ざかってしまうという危険さえある事である。
      それ故に、病原の確定的発見さえあれば、器械や薬剤はむしろ不必要の存在でしかなくなるであろう。
      次に、現在医家の診断に誤謬の多い事は、実に驚くべきものがある。
      余が診査するに、官立の大病院における診断でさえ、ほとんど七、八十パーセントは誤診である。
      これを読む人は信ずる事が出来得ないであろうが、事実は厳として動かす事が出来ないのである。
      それは医学において、唯一の診断法としているレントゲン写真でさえが、決して正確ではない事である。
      それは、前述の肋骨及びその外部に滞溜せる膿の固結と、未固結の膿汁のそれが、雲状に顕出するのを肺の疾患と誤る事によっても明かである。
      もっとも写真映像は平面であるからであろうが、これらも一大自覚の必要があるであろう。
      又、ラッセルにおいても、肺胞の場合もあるが、右の肋骨付近の水膿による場合も多いのである。
      又、肺胞にラッセルがあっても、肺患でない場合も多くある事を知らねばならない。
      又、微熱であるが、これはほとんど肺が原因であるのは十人に一人もない位である。
      そのほとんどは頸腺及び肩部、肋骨部、胃部、腹部、腰部等である。
      これらの発見に因る時、医学の診断の余りにも幼稚である事は不可解と思う程である。
      故に、現今、肺結核とされ、悲観している多数の患者は、実に肺に異常のない肺患者であると言ってもいいので、その事についていつも笑うのである。
      余が治療しつつある肺患の治病率は、その悉くがあらゆる医療を受けても治癒しないで、拗(こじ)れた難治症のみであるに不拘(かかわらず)、治癒実績が実に八十パーセント以上を挙げつつあるのは、何が故であるかといえば、肺に異常の無い、いわゆる肺患者であるからである。
      次に、今一つの誤療を指摘してみよう。
      それは病気軽快と治癒との判別がなく、混同している事である。
      そもそも、病患とは前述のごとく、それは浄化作用であるから、発熱、咳嗽、喀痰、喀血、盗汗(ねあせ)等の種々の苦痛、それはその患者の活力が旺盛であればある程、苦痛現象が猛烈であるはずである。
      しかるにその場合、医療は苦痛緩和の為の対症療法を頻りに行うのである。
      その療法とは、薬剤と獣性滋養食及び絶対安静法等である。
      しかるに、前者は血液を溷濁(こんだく)させ、後者は全身的活力を衰耗させるのであるから、浄化力は薄弱化するのは当然である。
      その結果として熱は低下し、咳嗽も喀痰も減少するので、病症は確かに軽快し、治癒に向うごとく見ゆるので、時によりほとんど治癒されたかと思う事さえもある。
      が何ぞ知らん、これは浄化停止の為の一時的緩和であって治癒ではないから、再発か又は現状維持のまま、全治もせず悪化もしないで数年に及ぶのであって、この様な患者は頗る多い事は誰もが知るところである。
      これは全く自然治癒防止のそれであるから、この様な経過中において、患者が運動をすれば直ちに浄化力が発生するから発熱する。
      それを医家は驚いて病気悪化と誤解し中止させるのである。
      近来泰西において業務に従事しつつ結核治病をせよという説が現われたのは、この絶対安静の非に目覚めた証拠である。
      以上のごとき、診断の不正確と病原の錯覚と治療法の誤謬等を綜合する時、現代医学なるものは一大革命をしない限り、国家の損失と民人の不幸は測り知れないであろう。
      この真相を徹底把握するにおいて、誰か寒心せざるものがあろうか。
      ここに吾人は一大警鐘を鳴らして、当事者に一大自覚を促さざるを得ないのである。
      表題の、「医学は退歩した乎」という事は、これに依て明かであると思うのである。」 (「新日本医術書」より)

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      「医学は退歩したか」

      2020.02.10 Monday 08:14
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        故に風邪こそ実に、最簡便なる天与の万病離脱法である。
        しかるに昔から、風邪は万病の因などというが、これは全く誤りであって、実はその反対の万病を免れ得る最も最善の方法であって、実に創造神が作為されたいとも巧妙なる保健法である。
        にも不拘(かかわらず)、それに盲目である医学は、風邪に罹る事を非常に恐れ、飽くまでこれを避けんとするのである。
        それが為万が一罹病した時、発熱を懼(おそ)れて飽くまで下げようとするのである。
        その結果折角の浄化は不能となって、ついに汚濁はそのまま残存し、時日の経過と共に固結してしまうのである。
        この汚濁固結こそ、実に結核的弱体化のそもそもの原因である。
        そうして、頸部及び肩部付近に溜積せる水膿固結は、解熱剤、安静療法その他によって一旦解熱し、鎮静を得るといえども、それは一時的で真の治癒ではないから、再び自然浄化作用に因って風邪に罹るのであるが、医療は再び浄化防止を行うので、その結果として膿の固結は漸次加重されていく訳である。
        かくのごとき事を繰返すにおいて、膿の固結は益々増加するから、当然の結果として自然浄化に因る発熱は解熱剤を以てしても容易に鎮静しない程に執拗となるのである。
        その必要となった発熱の為に溶解した膿が喀痰となって排泄する。
        その為に咳嗽が起り、それが連続的となるのである。
        又、今一つの症状を見逃す事は出来ない。
        それは、不断に頸腺及び肩部に集溜しようとしつつある全身の汚濁は、右の部に溜積した長時日の膿の固結に遭ってその部への集溜は不可能となるので、止むを得ずそれ以下である胸部の上辺から、乳及び腋の下の肋骨膜に溜積固着するのである。
        その固着部が乳及び腋の下辺である訳は、勿論、人間が両腕を絶えず使用するという、その為の神経集中によるからである。
        そうしてこの症状が胸部であるによって、医家の診断は肺結核又は肺浸潤とするのであるが、実はこの際は肺には何ら異状はないのである。
        何となれば、右は肋骨の内部症状ではなくて肋骨の外部であるからである。
        しかし、何分発熱とラッセルとレントゲン写真に雲状を顕すにおいて、肺患と誤診するのは無理もないのであるが、これは全く否である。
        故に、この症状は余の治療に依れば、一人の例外なく全治するに見ても、肺に異状のない事が明かであろう。
        次に、肺患悪化の原因として、特に消化不良の一事である。
        そうして、この原因の大部分が謬れる医療の為である事は言うまでもない。
        それは、肺患と知るや、医療は絶対安静を行うのである。
        この為運動不足による胃弱は著しいものであるのと、今一つは消化薬を服用させる事であるが、事実において胃を強め、食欲を増進させようとするその目的とは反対の結果となるのである。
        なぜなれば、一時は胃薬によって消化は旺盛となるが、日を経るに従い、胃自身の活動力は漸次衰退するのである。
        それは薬剤が消化してくれるから、胃は活動の必要がないから衰耗するのは当然な理である。
        その結果として、胃薬の効果が漸次薄弱化し、食欲不振となるから、いよいよ胃薬を服用させるという循環作用によって、胃はついに睡眠状態となるので、それが病勢を悪化さす事は、実に致命的でさえある。
        現在頗る多数に上りつつあるという胃疾患の原因も、これで肯けるであろう。
        その他、下痢、喀血、盗汗(ねあせ)等の原因及び療法等の誤謬も、右と大同小異であるから略する事とするが、要するに以上に依っても判明さるるごとく、現代医療は驚くべき錯覚の道を歩んでいるのである。
        これを一言にして言えば、人体に病気が発生するや、それを治癒しようとするその方法が治療の妨害となる事であって、特にその妨害の最も根本ともいうべきが解熱剤と氷冷である。
        故に、忌憚なく言えば、人体自身の治癒工作と治癒をさせまいとする医療との闘争で、その結果としての結核増加である。

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        「医学は退歩したか」

        2020.02.09 Sunday 08:16
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          「去る五月下旬の朝日紙上に、こういう事が掲載してあった。
          非常時局の中堅層をなす我が壮丁(そうてい)の体格及び健康が近年次第に低下しつつあるので当局では深く憂慮し、二十七日午後三時から九段偕行社に陸軍側から小泉医務局長、中島二等軍医正、園田一等軍医、文部省側から岩原体育課長、大西学校衛生官、伊藤事務官が出席、対策協議する事となった。
          こう云う陸軍、文部両当局の協議は今度初めての企てである。
          我国壮丁の体格は筋骨の弱い丙種、丁種の者が大正十一年から十五年までは千人に対し二百五十人であったのに、昭和七年度は千人に対し三百五十人に増し、翌八年は更にこの兵役免除者が四百人に増加している。
          又壮丁の胸部疾患も明治三十二年には百人中二人だったのが、現在ではこの十倍、即ち百人中二十人に増率し、身長に比して体重の増加は著しく劣って居り、教育程度が進むにつれて体格は悪く丙種丁種が多いという悲しむべき状態である。
          この壮丁の悲況を陸軍、文部両当局の協議がいかに打開するか、各方面から注目されている。
          右のごとき、明治三十二年から三十数年を経た今日、兵役不能者が十倍にもなったという事は実に驚くべきである。
          国家的に観てこれ以上の重大問題が他にあるであろうか。
          須(すべか)らく国家全体の智嚢を搾って、その原因を検討しなければならないのである。
          しかも一方医学は非常に進歩したという事になって安心して居るにも不拘(かかわらず)、事実は反対にそれを裏切っているのはいかなる原因に拠るのであるか。
          この趨勢を以てすれば、今後といえども殖えるとも減少する見込はないと想えるのである。
          何となればその根本原因が適確に判明されて、それに対する方策が確立されなければである。
          しかるにこの重大事に対して、当局も世人も案外無関心で居る、ただ一部の当局のみが焦慮しているに過ぎないとは、聖代におけるまことに不可解事であるといってもよい。
          この一事に徴してみるも、現代医学衛生における根本的欠陥がなければならない事である。
          故にこの重大事を救うの道は、この欠陥の発見で、それ以外には絶対無いと言えよう。
          しかるに私は、その欠陥を発見し得たので、発見と共に全く驚歎久しゅうしたのである。
          それは一体何であるか、以下詳細に述べてみよう。
          これら激増しつつある虚弱者特に結核患者(弱体児童を含む)に対し、現代医療は何をして居るのであろうか。
          真に防止しつつあるのであろうかというに、実際は防止所ではなく反対にどしどし作っているという一大奇怪事である。
          そうしてこの様な信ずべからざる程の重大事に誰もが気が付かないという問題である。
          この意味において、むしろ医療なるものが無かったなら、兵役不能者は一大激減をするであろうとさえ思うのである。
          否事実そうである事は火を睹(み)るよりも瞭かである。
          それは医学が進歩するに随って漸増するという一事が遺憾なく証拠立てている。
          千人中二百人にも兵役不能者が増加したという生きた事実こそ、私の右の説を裏書して余りあるのである。
          噫(ああ)、国家の前途に対して、これより大なるものは無いであろう。
          しからば右のごとき、医学の誤謬とは何であるか。
          それを赤裸々に述べなくてはならない。
          それを述べるに当って、その誤謬の根本とも言うべき病気の本体から明かにする必要があろう。
          そうして医学におけるそれの認識が一大錯覚に陥ってるという事実である。
          それは医学においては、何故に病気が発生するかという事には未だ不明であって、医学上における目下のそれはあらゆる病原が黴菌であるという他動的原因、即ち他原説である。
          しかし、これがそもそもの誤謬である。否、全然誤謬ではないが、実は一面の解決でしかない事である。
          しかるに、私の研究によれば、病気の本体は実は人間自身の自然浄化作用である。
          即ち、自原説である。それは何か、人間が生存上、あらゆる原因に因って不断に汚濁が堆積するのであって、それが為に血液の不浄化となり、その不浄化が病原となるのである。
          が、それは不浄血液そのものではなくて、その不浄血液を浄化さすべき工作そのものである。
          故に、病気現象なるものは、浄化作用としての苦痛でしかないのである。
          そうして結核患者は何が故に発生するのかといえば、それは汚濁が不浄血及び膿汁となって、何人といえども、頸部付近と肩部付近に溜積するのである。
          そうして、その汚濁の溜積がある程度を越ゆる時、それの解消作用が起るのであって、その、動機促進が冬の寒冷でその工作が風邪である。
          故に、風邪に罹るや、それら汚濁を解溶すべく発熱が起り、膿は稀薄となるので、喀痰及び鼻汁とし排除されるので、それに依って人体は健康を保ってゆけるのである。
           

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          「病気と人間の性質」

          2020.02.08 Saturday 08:33
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            「私が幾多の経験上、面白い事には病気とその人の性質とが好く適合している事を感ずるのである。
            例えば病気治療の場合、よく判るのであるが、素直な性質の人は素直に治ってゆき、淡白な人は病症も淡白である。
            それに引換え、我の強い人はそのごとく病気も長引く傾向がある。
            従って、頑固な人は病勢も頑固である。心の変り易い人は病気も変り易く、皮肉な人は病気も皮肉な経過を辿るのである。
            この理によって考える時、療病に際し、この事をよく知って、その人の悪いと思う性質を治してゆく事は、取不直(とりもなおさず)、病気に好影響を与える訳になるのである。
            それは、何事も素直になる事が最もよいのである。」 (「新日本医術書」より)

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            「驚く可き誤診と誤療」

            2020.02.07 Friday 08:42
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              「私は今日まで、幾多の患者を取扱いつつあるについて、実に驚くべき事を発見するのである。
              それは、患者の言に徴して、医師の誤診の余りにも多い事である。しかも、何人といえども絶対信頼を払ってる各医大における斯界(しかい)の権威者達の誤診がすくない事である。
              因ってこれから逐次発表して、当事者は固より一般世人に、警告を与えたいと思うのである。
              断っておくが、私は決して医家を非難しようとする心は、毫末も無いのであって、ただ、止むに止まれない、至情からである事を、充分諒解されたい事である。
              故に、努めて事実から、一歩も出でないように、注意するつもりである。

              五つは空の病気  京橋区新川町 SH(四十五歳。女性)
              この患者は、拾年前からの発病で、一進一退の経過を経ている中(うち)、一年位前から悪化した為、絶対安静を守り、便所へ行く以外臥床を続けていたのである。
              患者の言によれば、○○博士と○○博士の診断によれば、左の肺尖加答児、右の肺門淋巴腺、心臓肥大症、胃下垂、脚気、小腸加答児の六つの病症であるとの事である。
              しかるに、私が診査の結果、右六つの病気の中、小腸加答児だけは認めらるが、他の五つの疾患は全然無いのである。
              ただ、この患者は、長期臥床によるはなはだしい衰弱で、無論、貧血と痩羸(そうるい)は、一見重体らしく見えるのであるが、実際の病気としては、頸部の周囲、及びその付根に膿が溜結しているのみで、他は、長期に渉って服んだ薬毒の為の器能全体の衰弱と、腎臓部と腹膜に些(いささ)かの水膿滞溜をみたのみである。
              治療の結果、四日目に床を離れ、十日位から日常の家事に励しむようになり、二十日位経てから、健康時と変らないまでに全治したので、本人の喜びは言葉に現わし難い程であった。
              周囲の者の驚きは、想像に余りある程であるそうで、知る限りの人々はただ不可解というのみであるそうである。

              逆になった死の宣告  芝区白金志田町 KR(七歳。女性)
              この患者は、昨年九月○○医大の小児科医長、○○博士からこう言われたそうである。
              「この子は、入院はお断りする。何となれば、絶対治る見込はない。
              病気は、肺患であって、半ケ年以上は生命は覚束(おぼつか)ないからその覚悟をせよ」との事であった。
              診査してみると、肺は何ら異常はないのであって、ただ左右の耳下腺から淋巴腺へかけて相当大きい膿の溜結があり、その為に毎日九度以上発熱するのであった。
              私はその膿結を治療した所、漸次、解溶解熱し、一週間後に至ってほとんど平熱となり、最初は顔面蒼白元気なく、歩行も困難な状態であったのが、解熱頃から、漸次頼に紅潮を呈し、体重は増し、元気は恢復して来たのである。
              一ケ月余にして、ほとんど健康時と変らぬまでに全治したのであるが、淋巴腺の膿結が幾分残存しているので、その後、月に二、三回は来るのである。
              今年の四月、芽出度く小学校へ入学し、その溌剌たる健康振りは、普通の児童にも優る位である。
              先日も、半年以上生命は覚束ないといった博士の言葉へ対し、その余りに反対である事実を語りつつ、その母親は哄笑したのである。
              これらの実例へ対し、当事者が調査を欲する場合、何時にても欣(よろこ)んで斡旋するは勿論、むしろ患者の全治状態を参考の為審査されん事を希望してやまないものである。」 (「新日本医術書」より)

              新日本医術書 9(病気と人間の性質・医学は退歩したか・誤診誤療の実例)
              明主様御教え 「病気と人間の性質」 (昭和11年御執筆)
              「私が幾多の経験上、面白い事には病気とその人の性質とが好く適合している事を感ずるのである。
              例えば病気治療の場合、よく判るのであるが、素直な性質の人は素直に治ってゆき、淡白な人は病症も淡白である。
              それに引換え、我の強い人はそのごとく病気も長引く傾向がある。
              従って、頑固な人は病勢も頑固である。心の変り易い人は病気も変り易く、皮肉な人は病気も皮肉な経過を辿るのである。
              この理によって考える時、療病に際し、この事をよく知って、その人の悪いと思う性質を治してゆく事は、取不直(とりもなおさず)、病気に好影響を与える訳になるのである。
              それは、何事も素直になる事が最もよいのである。」 (「新日本医術書」より)

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              「現代医学は何処へ行く」

              2020.02.05 Wednesday 09:02
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                「現在、医学研究の為に、日本だけに見ても幾千の人と、一ケ年幾百万の費用を使って、研究に専心没頭しつつある事である。
                それは吾々から見れば、全く徒労のような気がしてならない。
                忌憚なくいえば、それらは一小部分に溜(とど)めておいて、今一層有意義なる事に転向したならばと常に思うのである。
                こんな事を言えば、狂人の言葉とも見られるかも知れないが、以下の論旨によって、深く検討されたいと思うのである。
                一体、医学の目的とは何ぞやと言えば、言うまでもなく、人間病気の根絶である。
                それ以外に何物もあり得ない事である。
                故に、日本は固より、全世界文明国の医に携わる数多(あまた)の学者権威が智能を絞り、日夜苦心惨澹、分析研究に努力しつつあるのは、終局の目的たる病気根絶の為である事は、言うまでもないのである。
                故に、それらは最終の目標たる病気根絶のそれまでの研究でもあり、努力でもある訳である。
                故にもし、今直ちに病気根絶の方法が発見され得たとしたら、最早、研究努力の要は無い訳である。
                しかしながら、余りに意外な私のこの説を、直ちに受入れるのは困難であろう事は判っている。
                どうしても綿密な実験以外に解りようはずが無いからである。
                医学上最も難治とされる癌、結核、痔瘻(じろう)、喘息、脳溢血、中風、癲癇(てんかん)、発狂、梅毒、脳膜炎等、あらゆる疾患が、
                罹病後直ちに来れば、二、三回ないし十数回の治療によって全治するので、
                治病率百パーセントの実績は決して過言ではないのである。
                現在あらゆる治療に散々拗(こじ)らされたる患者が大部分であるに係わらず、
                なお八十パーセンテージ以上の治病実績を挙げつつあるにみて、想像され得るであろう。
                事実に抗弁し得る力は絶対に有り得ない。
                繰返して私は言う。かくのごとき完全療法が成立した以上、医術はこれのみになる事は必然の理である。
                今日の薬剤、医療器械等、数十年の後には、博物館へ歴史の参考品として飾られるかも知れないとさえ想うのである。
                この療法あるを知らずして、それの恩恵に浴せない事程、不幸な人達はあるまい。
                否、それよりも最大級の不幸な人というのは、この療法を眼にし、耳にしながら、信ずる得(あた)わずして、遂に貴重なる生命を失う事である。」 (「新日本医術書」より)
                 

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                「宗教の治病統計を作れ」

                2020.02.04 Tuesday 08:28
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                  「宗教が、特に新興宗教が病気治しを本位として、信者を獲得している事は誰も知る通りであるが、これへ対し既成宗教側や、その他の方面で、それがインチキであるというのである。
                  しかしながら、事実、病気が治り、それが医学よりも優れているとすれば、インチキ所ではない。
                  大いに推賞して、社会の役に立たせなければならないのであって、もし、新興宗教の言うごとき治病の効果があるならば、インチキ所ではない。
                  実に人類の為に素晴しい貢献であって、非難する方がインチキであろう事である。そうして、むしろ政府が進んでこれを奨励すべきである。
                  ただしかし、それが、ある種の病気に限られるか、又は、その言う事が事実より誇大なる点があれば、その点がインチキである。
                  故に、それをはっきりさせる事が、新興宗教としては緊要時であると思うのである。
                  しからば、それは、どうすればよいかというに、私は統計をとるより外に方法はないと思うのである。
                  まず無論、能(あた)う限りの正確を期し、その宗教の治病率と信者の罹病率の統計をとる事である。
                  特に治病率の方は、患者が現在までの病気治療の経過と、及びその宗教による全治の経過及び予後の状態、それらを詳細に記述し、その統計を天下に示すべきである。
                  そして果してその効果が医学以上に認むべきものがあるとしたなら、これは政府が新しい医術として奨励し、普(あまね)く社会へ応用する必要が起るであろう。
                  ただ、それらの事をしないで、漫然とインチキである、否インチキでないと相争っておった所で、果しがない事であるし、又新興宗教としても、いつまでもインチキ視せられている事は、発展の上にも障害になるであろう。
                  そうして右のごとく、統計を示す事が不可能とすれば、それは確かにインチキであると決められても、返す言辞は無いであろう。
                  しかしながら、西洋医学にも多分にインチキ性のある事は認めざるを得ないのである。
                  否、インチキというより錯覚であるかも知れない。未だ不完全なる療法を完全として応用する誤謬かも知れない。
                  しかも、それらは、最高権威である大学あたりの診断や治療にも驚くべき錯誤のあるという事実を常に吾々は見せ付けられているのである。
                  従って、これら両方面共、最も公平に厳重なる検討をして、その誤れる点を発見匡正(きょうせい)する事が、今日の急務である事を言いたいのである。」 (「新日本医術書」より)

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                  「霊と血と正しき信仰」

                  2020.02.03 Monday 09:27
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                    「そもそも、人体の構成原素を大別すれば二種の原素から成立っている。
                    それは、精霊と肉体とである。しかるに、今日までの科学は、肉体あるを知って精霊あるを知らなかったから、半分だけの認識であったのである。
                    それは、科学が進歩したといっても、精霊の実在を測定なし得るまでに到らなかった為である。
                    しかして、再三述べたごとく、病気の根源は、精霊に最初発生するのであって、その順序として精霊の曇りが血液の汚濁となり、血液の汚濁が肉体への病気となるのであるから、血液なるものは、実は精霊の物質化であるとも言えるのである。
                    その証拠には、人間の死後忽(たちま)ちにして血液は凝結するので、血液の量積は何百分の一に減少する訳である。
                    即ち、血液を全身的に流転活動させつつあったそのエネルギーの脱出である。
                    しからば、そのエネルギーは何であるか。その召海柔採遒修諒である。
                    故に、死は精霊の脱出である。
                    いわば、最早使用に堪えなくなった肉体を精霊は捨て去ってどこへか行ったのである。
                    別な意味から言えば、精霊を繋ぎとめるとしては、余りに肉体が破損し過ぎてしまったのである。
                    宛(あた)かも壁は落ち、軒は傾き、雨露を凌(しの)げなくなったから、止むを得ず、その破家を捨てて永年住んでいた住居人が引越して行ったようなものである。
                    故に、人間の健康上最も緊要なのは清浄なる血液である。
                    しかるに、この血液を浄化する方法は、今日まで絶対に発見されていなかったのである。
                    薬剤も、光線も、電気も、この力は無いのである。それは、血液なるものは精霊の物質化である以上、血液を浄めんとすれば、どうしてもまず精霊を浄めるのが先である。
                    しかし、精霊の実在を知らなかった科学は、血液浄化法を発見されなかった事は当然な訳である。
                    しかし、この隠れている力である精霊なるものは、肉体以外の全部ではない。
                    実は、精霊は外殻であって、その中に心なるものがあり、その又中心に魂なるものがあるのであって、魂こそ実に人間五体の支配者であり、主である。
                    そして、この魂なるものこそ、神から付与せられたる最貴重なるもので、実に良心の根源である。
                    故に、この魂の発動が意思となって心を動かし、その心が精霊を動かし、精霊が肉体を動かす順序である以上、魂から出発した良心の命ずるままに動けば、不正はないから、決して失敗はないのであるが、ここに厄介なのは、精霊には種々の動物霊が憑依する事である。
                    この様な事を言えば、現代人は嗤(わら)うであろうが、私は嗤う人達を嗤いたいのである。
                    何となれば、事実は厳然として否定すべくもないからである。
                    その動物霊とは、狐狸、天狗、蛇、犬、猫、馬、蛙、鳥類等が主なるものであって、これらが精霊内に在って、伸縮自在、無碍(むげ)に活動しているのである。
                    普通は一個体であるが、人により二個体以上憑依の場合もある。
                    いかなる人といえども、一個体は必ず憑依しているのであって、この常憑者の外に、臨時に他霊が憑依する場合もあり、人間の死霊が憑依する事もあるのである。
                    しかして、これら憑霊は、一切の悪の根源である。
                    故に、神から付与の内奥部の魂から発する善と、外部から憑依した動物霊から発する悪とが、絶えず心を専有せんと闘争しているのである。
                    随って、この中間に挟まっているところの心は、内からの魂に組せんか、外からの憑依に組せんかと、絶えず動揺し、昏迷しつつあるのが、現在における人間の想念の状態である。この理さえ解れば、信仰に対しての正邪の区別が判然するのである。
                    正しき信仰は、主の神が中心である。主の神は太陽神たる天照大神であるから、絶えず太陽の光明に照らされるのである。
                    この太陽の光明に人間が照らさるる時は、憑依している動物霊は畏縮して、自己の活動力が衰弱するので、本来の悪の活動力が鈍り、悪を以て心を捉える事が不可能となるのである。
                    悪の誘引が弱れば、心はどうしても魂、即ち良心に組しない訳にはゆかなくなるのである。
                    この状態になった人こそは、真の信仰を把握し、魂の磨けた有徳者になったのであるから、ここまでに成った人間は、病気、失敗、不幸からは全く解放されて、一身一家は栄えゆくばかりで、法悦を味い得るところの光明の生活者である。
                    これらの完全人間を造るのが我観音運動であって、この力は観音力より外には無いのである。
                    酒を好むのも、姦淫をするのも、争を好むのも、皆この憑霊が本来の悪を以て、その人の心を専有した結果である。
                    しかるに、今日までのいかなる宗教といえども、この憑霊を畏縮さすべき光の力が無かったのであるから、光明生活者たり得る者が無かった訳である。
                    その証拠には、病者、飲酒家、姦淫者、争等の全く無い宗教団体は在ったであろうか。
                    遺憾ながら否と言わざるを得ないのである。
                    我健康協会会員には、病者、飲酒家、姦淫、争は無いと言ってもよいのである。
                    ただしかし、新しく入信したての者は、過渡期の現象としての右の残跡あるは止むを得ない事ではあるが、時日の経過と共に、一歩一歩より向上しつつ、ついに全く完全人間、光明家庭を作り得るのである。」 (「新日本医術書」より)

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                    「健康協会会員の天寿は九拾歳を越えん」

                    2020.02.02 Sunday 09:02
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                      「そもそも日本人本来の天寿は幾つかと言えば、百弐拾歳である。
                      これはいかなる根拠から出たかと言う事を解り易く説いてみる。
                      人間は天地の縮図であり、小宇宙である。
                      又、日本国は地球の雛型になっているのであり、日本の気候は、四季がまことに好く調っていて、それが人生の経路によく当嵌まるのである。
                      即ち、一年を十二ケ月に分ければ、春夏秋冬は三月宛である。
                      それを人間に当嵌めて試ると、一歳より三拾歳までが春分となり、三拾一歳より六拾歳までが夏分となり、六拾一歳より九拾歳までが秋分となり、九拾一歳より百弐拾歳までが冬分となるのである(すべて陰暦に依る)。
                      この四季の状態は、まことに人生行路の起伏をよく現わしているのである。
                      まず、人間呱々の声を挙げて出生するや、芽出度いとして大いに祝うのである。
                      この時はちょうど正月元旦、新年の誕生を寿(ことほ)ぐのと同じである。
                      そうして漸(ようや)くそれぞれの学校を卒(お)え、丁年(ていねん)ともなれば年頃になって春になると人生の花が咲く。
                      男は世に出て花を咲かさんとし女も又、春風に遇って花の蕾が綻(ほころ)びようとする状(さま)である。
                      それで初経の事を花が開くという。
                      それが、三拾を越えて夏分に入るや、益々、花の盛りとなるのである。
                      花によっては早く咲く花と、遅く咲く花とあるが、これも人間に好く当嵌まるのである。
                      早く成功する男子もあり、遅く結婚する女子もあるようなものである。
                      そうして、四拾を越え、五拾を越えて、男子はいよいよ信用も得、活動の旺盛期に入り、女は幾人かの子女を得て一家繁り栄ゆる状は、ちょうど四、五月頃から、花は散っても葉や枝がいよいよ茂るのと同じである。
                      そうして、六十を越えるに及んで、実りの時期となり、刈込になるのである。
                      若い頃から、苦心惨澹した事業が漸く実を結ばんとし、女は又、苦労して育てた子供等が漸く一人前となって、親の為役に立つ頃となるのである。
                      それがちょうど、植付の頃から、種々の手を竭(つく)して、稔らせた稲の収穫期の様なものである。
                      その秋の収穫も過ぎて、いよいよ九拾を越ゆれば冬季に入るので、それからは、功成り名遂げて静かに余生を送る。それが人生真の順序である。
                      故に、百二拾歳まで生きるのが本当であって、神武紀元千年頃まではそれに近かったのである。
                      しかるに、人間が罪穢を構成した事と、中国から漢方医学が渡来し、人間が薬剤を服用する様になってから、追々、寿齢が短縮したのである。
                      故に、今日のごとく日本人の平均寿命が、六十歳などとは古人の夢想だもしなかったところで、近代人は真に不幸なものである。
                      これ全く右のごとき過誤による結果なのである。
                      故に身体に毒がなければ百二十まで必ず生きられる。
                      ここに、天の時来って、観音力に依る無医薬療法が創始されたのであるから、これからは漸次人間の罪穢は払拭され、体内に残存せる薬毒が減少してゆくので、復(ふたた)び寿齢は延びてゆくのである。
                      それについては、本会員といえども、祖先以来の不浄が体内に残っている関係上、理想の百二十歳は難しいであろうが、九拾歳以上は必ず生きられるのである。
                      この事に依てみても、いかに本会員が恵まれているかが判るのである。」 (「新日本医術書」より)

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