「病気の原因と罪穢」.1

2020.01.08 Wednesday 08:20
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    「病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、その汚血と水膿は精霊の曇の移写であるという事は、既に述べた通りであるが、しからば、その曇はいずれから発生流転して来たかというと、それが罪穢なのである。
    しかして、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。
    即ち先天的は多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。
    まず第一の祖先の罪穢を、悉(くわ)しく述べてみよう。
    今、現在生きている吾々個人は、突然と涌(わ)いたところの、いずれにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、その尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。
    大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言えば、親と子を繋ぐ楔子(くさび)でもある。
    祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、すなわち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。
    人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体という衣を脱ぎ棄てるのである。
    人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属しているものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃(たいはい)して使用に耐えない以上、精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。
    そうして霊界において再び現世に出生する準備をしなければならない事になっている。
    その準備とは浄霊作用である。しかるに大部分の人間は、生存中における罪の行為による穢が相当に多いので、霊界においての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。
    地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、その際罪穢の浄化による、残渣(ざんさ)とも言うべき霊的汚素が、現世に生を営みつつあるその子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。
    それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するという、一種の因果律的贖罪法である。
    これは万物構成における主神の神律である以上、いかんともし難いものであって、人間はこれに服従する以外、何事も出来得ないのである。
    それはこの霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、その汚素が人間の精霊に入るや、忽(たちま)ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。
    これがあらゆる病原となるのである。
    第二の個人の罪穢を説いてみるが、これは誰しもよく判るのである。
    いかなる人間といえども、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくという事は、出来得べからざる事である。
    しかし罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。
    また行為に表われる肉体的の罪もあり、心で思うだけの精神的罪悪もある。
    基督(キリスト)がいった、女を見て妙な心を起しただけでも、姦淫の罪を犯す事になるという戒めは、厳し過ぎるとは思うが、間違ってはいないのである。
    かように、たとえ、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやりたいとか、姦淫したいとか想うのは、誰しも罪とは思わない程の微細な事ではあるが、これらも長い間積り積れば、相当なものになるのである。
    又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。
    又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違えるとか、嘘言を吐くとか、いう様な事も知らず識らず侵す一種の罪である。
    かくの様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。
    しかし、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであろうと思うが、決してそうではない。
    すべて人間は、親の膝下(しっか)を離れて、一本立になればともかく、親によって養われてる間は、親の罪穢も分担する事になっているのである。
    ちょうど、樹木にたとえてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、その又枝が孫である。
    幹であるところの親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。

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    「病気の根本原因と真の治療」

    2020.01.07 Tuesday 09:41
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      「そもそも、病気の根本原因とは何か。
      それは、一言にして言えば精霊の曇である。
      本来、人体は精霊と肉体から成立っているのであって、肉体ばかりであるならば、それは単に物質でしかないのである。
      そうして、精霊の中心に支配者としての魂がある。
      その魂こそ実に生命そのものであるから、生命を演繹したものが精霊である、とも言えるのである。
      そうして、精霊を物質化したものが肉体である。
      従って、肉体を動かす場合、生命である魂が意志を生じ、間髪を容れず精霊を動かし、又、間髪を容れず肉体を動かすのである。別言すれば、生命即魂であり、魂即精霊であり、精霊即肉体である。
      なお今一歩約(ちぢ)めて言えば、生命即肉体であり、肉体即生命である。
      故に、肉体の毀損が生命の断絶となり、生命の断絶が肉体の死となるのである。
      この理によって、肉体と魂との中間体の存在である両者の媒介者としてのそれが精霊である。
      故に、病気の根元は魂そのものから出発するのである。
      しかしながら、まず病原を二大別する事が出来る。一は外部的即ち肉体から病原を作る事もある。
      それは例えば、飲酒、不純な性的行為、服薬、注射、種痘、肉食過度等であって、今日までの病原としての解釈は、この肉体的方面ばかりである。(もっとも右の中、服薬、注射、肉食等は、現代医学の解釈においては可とするが、本療法にては不可とする)
      故に治療の研究も、この肉体的方面のみを主としている事それが誤謬である。
      実は真の病原は魂にあって、肉体は従であるのが真相である。
      何となれば、肉体はそれ自身に発言権も、命令権もないので、一切は魂の命ずるままに動いているからである。
      いわば、魂の衣である。
      人間がその衣服を着用する場合、意志のままにするのと等しいのである。
      従って、衣服が余りに毀損し、余りに汚濁した場合脱却するのが普通である。
      それと同じで、肉体が余りに毀損して、使用に堪えない場合、魂はそれを脱却して霊界へ赴く。それを称して死というのである。
      この理によって、病気がまず魂に発生する場合、それは魂の全体、又は一部に曇を生ずるのである。
      それが精霊に移写し、又、それが肉体へ移写する。
      その場合精霊の曇は、血液の溷濁(こんだく)となり、それが膿汁と化するのである。
      その膿汁が滞溜し、固結する。それの排除作用が、肉体的に言えば病気と称するのである。
      故に病気を治癒する真の方法としては、精霊の曇を払拭する、それ以外には絶対に無いのである。
      故に、曇の残存する以上、肉体の方をいかに治癒しても、再発するのは当然である。
      医療における再発の多いのは、この理によるからである。
      本療法は、神秘光波によって、この曇を払拭する。
      それが為即時浄血し、即時痛みは去るのである。
      その際誰しも奇蹟とするが、決して奇蹟でも不思議でもなく、右のごとくまことに合理的方法である。
      かくのごとく、一切の病原は肉体からと魂からの両方面である。
      しかし、ここに自然法則を知らなくてはならない。
      それは物質はすべて無形の霊に支配されるという事である。
      それ故、肉体的原因による疾患といえども、精霊の浄化にあらざれば根治しないのである。
      又、別の意味から言っても、肉体的病原を作るその根原は結局魂にあるのであるから、魂とそれによる精霊の正純化こそ、実に病気治療の原則であって、
      それ以外真の治療法は無いという事を、断言し得らるるのである。」 (「新日本医術書」より)
       

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      「観音力療病とは何ぞや」

      2020.01.06 Monday 08:07
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        「観音力療病という言葉は、開闢以来未だ無かった言葉である。
        それは、観音力療病なる方法が、開闢以来未だ生れなかったからである。
        それについて、観音力なるこの力は、いかなるものであるかという事を述べたいのである。
        即ち、観音力とは観世音菩薩が、ある選ばれたる一個の人体を機関として、救世済民の為揮われる不思議な力である。
        一体この不思議な力とは何であるかと言うと、それは光と熱と水霊である。
        この光熱水は、太陽が放射する光熱と、月光のエキスとのコクテルとも言うべきものであって、その霊妙なる光波は、彼のラジュウムや樟、紫外線等の何百倍であるかは測定が出来ない程の治病力あるものである。
        故に、今日の学問と人智の程度では、到底認識出来得ないものであるから、実地体験より外に真相を把握する手段は無い。
        実にこの光波こそは超召任△襦
        故にこの光波によって、一度難病が治癒せられ、又は大奇蹟に遭遇する時、初めて観音力の不思議さと、偉大さを識り得るのである。
        そうしてこの力は、釈迦も基督(キリスト)もマホメットのいかなる聖者といえども有ってはいなかったものである。
        その最大理由としては、時期の関係であった。
        もし、これらの聖者の一人にても揮ったとしたら、その時限り病無き世界となっていたはずである。
        しかるに、今日もなお依然として、否益々病苦に悩む者衢(ちまた)に充つるの事実は、それを証して余りあるのである。
        眼に見えずして治病力の強大なる観音力は、実に量り知れない力である。
        これについて一つの例を挙げてみよう。
        私が「治病観音力」と紙へ書くその紙を折り畳んで誰でもよいから懐へ入れるとする。
        そうすると、その文字の意味が光となって活動をなし、その人の手から指から射出する。
        従って、その人の掌や指が、病人の患部へ触れる時、苦痛はたちまち軽減するのである。
        故に、医学で治らなかった難病も続々治癒される、という大事実である。
        かような事を言えば、信じないばかりか、私に抗議を申込む人があるかも知れない。
        又、当局から誇大視せらるるかも知れない。
        しかし、事実は枉(ま)げる事は出来ない。
        百の理論といえども一の事実を枉げる事は、為し得ない訳である。
        確かに世界の黎明期は来ている。
        人類全体が光明に浴する時が来ている。
        この空前な力の顕れが、それを物語って余りあるであろう。」 (「新日本医術書」より)

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        「治療方法」

        2020.01.05 Sunday 09:03
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          「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。
          まず初め、拍手を三つ音のせぬ位軽く打ち、観世音菩薩を念じ、左手を患者の右肩へ軽く宛(あ)て、患者の頭を少し下げしめ、右手の人差指を以て、その頭脳の中心点へ向って「この者清まれ」と、三度空中へ書くべし。
          書くが否や直ちに口先にて、フーッフーッフーッと二、三度息を吹掛け、右手を開いたまま頭上一寸位の空中を、出来る丈速く左右に擦るようにしては息を吹きかける。
          この時間一分間位にてよし。
          最初にこれを行う訳は、元来、人間全体の根源は頭脳にあり、いわゆる病原の中府ともいうべき所であるから、まずこれを浄めて取掛るのである。
          次に患者に対って、既往の症状、経過、苦痛の個所等、成可(なるべ)く詳細に訊ね、それによって患部の病原を、指頭を以て綿密に探査しつつ、探り当てるのである。
          病原発見と共にその場所へ向って治療を施すのである。
          治療上の原則としては、最初患部へ向って右の人差指を以て、「この中清まれ」と三回書き頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。
          この場合皮膚に触れてもよし、触れなくても宜(よ)いのである。
          かくのごとくして数回繰返し、指頭を患部に軽く当て、指頭に霊を集注させ、病原を溶すごとき心持を以て軽圧するのである。
          この場合病原はほとんど水膿溜結であり、指頭にて触圧せば多少の痛みがあるので、よく判るのである。
          かくして息にて塵埃(じんあい)を吹払うごとく、治療中、何回となく吹けばよいのである。
          これを繰返す裡(うち)に、病原たる膿結は必ず多少共溶解するものである。
          溶解しただけは患者は軽快を感じ、それだけ治癒したのである。
          ただし、右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配してよいので、場合により掌を利用してもよいのである。
          療術せんとする時首に懸る観音力御守こそは、霊光の受信機とも言うべきものであって、この御守を通して、観音力霊光が術者の指頭及び掌より放射参透するのである。
          次に施術する場合の心の持方について、一言せんに、この患者を治癒せば、観音運動の為になるとか、又は物質を提供するならんなど想像する事は、大変不可であって、ただ患者の病苦が除去され、治癒され救われるよう、念願するだけが良いのである。
          何となれば、観世音菩薩の大慈悲は、一切衆生を無差別的に救わせられる大御心であるから、人に依っての別け隔ては決して無いのである。」 (「新日本医術書」より)

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          「本療法と一般指圧療法との比較」

          2020.01.04 Saturday 07:55
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            「近来、各所に行われつつある一般指圧療法は、効果も相当にあり、随って世人の信用もすくなくないのであるが、本療法と比較すれば、総てにおいてはなはだしい懸隔(けんかく)があるのである。
            それはなぜであるかというと、一般指圧療法は人体電気即ち、人間個人の霊力が、その指頭より放出するによるのであるから、治療を行う場合術者は非常なる努力を以て、精神統一をなし、施術するを以て術者の霊的エネルギーを消耗する事はなはだしく、非常に疲労を感ずるものであるから、余程健康者でない限り困難な点があるのである。
            従って、時間もそれだけ長きを要するのは勿論である。
            しかるに本療法は、最背後に観世音菩薩が在しまして、その不可思議治病カを、仁斎(註 明主様のこと)を通じて術者に無限に供給し給うのであるから、別段努力の必要がなく、ただ、自分は仲介機関であるという意識の下に施術すればよいのであるから、この点実に簡にして易々たるもので、それにも係らず、その効果は実に絶大であるのである。」 (「新日本医術書」より)
             

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            「日本医術新生の時期」.2

            2020.01.03 Friday 08:05
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              結核患者も、脳溢血も、神経衰弱も、絶望的数字にまで進んでいて、それで、医学は進歩したというのである。
              精神病院は現在患者の十分の一しか収容出来ないそうだ。
              新聞紙の広告欄は薬の能書で一杯である。
              新興宗教は治病だけで信者を獲得している。
              それで医学は進歩したというのである。
              医学博士で灸治療をする者が段々殖えるそうだ。
              又、掌療法専門の博士も有るという事だ。
              それで、医学は進歩したというのである。
              皮下に在る膿一滴といえども、メスか針で皮膚に傷を付けなければ、除去出来ない現代医術である。
              そのような医術で、人間の生命を解決しようとするのは、ロケットで月世界へ往くより困難であろう。
              又、薬剤で病気を治そうとするのは、ロボットに恋愛をさせようとするのと等しいものかもしれない。
              何となれば、薬剤は苦痛の緩和は出来るが、病気治癒力は、絶対有り得ないからである。
              科学的医療と、インチキ宗教に、生命を託さなければならない時代の人間程、不幸な者は有るまい。
              この時代こそ実に病者氾濫時代である。
              にも係わらず、医学は進歩したと思込んで、医療に満足し切って何ら疑点を挿(さしはさ)まない盲目さである。
              まことに悲惨そのものである。
              吾々は、この様な現代医学に生命を委(ゆだ)ねて安心出来るであろうか。
              勿論、科学の恩恵は素晴しい、最大級の感謝を捧ぐるも足りない事は識っているが、人間の生命だけは科学の範囲外に置くべきものである。
              新生さるべき日本文化とは、科学のみでない。
              精神と科学、霊肉両全の、否、霊が主たるものでなくてはならない。
              勿論、医術も殊に霊が主であるべきだ。
              それは、生命力を復活させる力は霊が基本であるからだ。
              無論、宗教的や観念的でもない。
              実に科学的でも、宗教的でも全然ない。新しさと完成が在るべきである。
              そういう完全医術が、日本に新成されてそれが世界へ拡充されて、白人も、東洋人も、黒人もが、均しく恩恵を蒙るという、その時期が来た事を私は信ずるのである。
              そうして病無き時代は創造される。病種は漸減し、病院は次々閉鎖されてゆく。
              医師の数も、死亡率も、漸次減少するのは勿論である。
              この夢にも等しい医術が、日本文化の根幹をなすであろう。
              それは、西洋文化が、日本の長夜の夢を醒ました時も、医術がその先駆をなしたように、今や、新生日本文化は、赫々として、旭日のように、西へ西へと光を拡げてゆくであろう。」 (「新日本医術書」より)
               

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              「日本医術新生の時期」.1

              2020.01.02 Thursday 09:15
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                「彼の明治維新は、鎖国の夢を醒(さま)して一大転向を吾らの国にさしたのである。
                それは言うまでもなく、西洋文化による一切の革新であった。しかもそれは、六拾余年を閲(けみ)した今日、最早一段落となった事は余りにも瞭(あきら)かである。
                であるから、無差別的に模倣や吸収をして来た西洋文化の再認識と、その清算をしなければならない時が来たのだ。
                それは役立つ物は残し、役立たないものは捨て去る事なのだ。
                そうして、その帰結としての世界各国の長を綜合して、ここに新日本文化の創造課程とその拡充に驀進(ばくしん)しなければならないのである。
                そうして、その鋒鋩(ほうぼう)は既に現われかけている。
                見よ、産業の躍進もその一つである。文教の日本化も、政治的革新も皆、その顕(あらわ)れのそれでなくて何であろう。
                しかしながら、飜(ひるがえ)って我建国以来の歴史を覧た時、そこに何ものを見出すであろう。
                類例無き万世一系の君主を仰ぐ、国民の忠勇義烈の特殊思想は勿論、支那文化も、印度宗教も、日本化して、否、日本に依ってその生命力の発展と完成を見たのは、余りにも顕著である。
                この故に、今日も、これからも、躍進日本の動向の主因は、三千年間に培われた日本文化によるのであって、やがてその華が咲き実がなるのである。
                いわゆる文化形態が日本的に芽生えようとする今、人間の生命を把握している、絶対者ともいうべき医術そのものが革命され、新生してもよい訳である。
                しかしそれは、ただそれだけの理由でもない。
                それよりも西洋医学の余りにも無力であるという理由も勿論である。
                今にも難症が解決出来るかのようにいい、今にも生命の神秘が白日に晒し出さるるかの様に新発見を発表する。
                又、新薬や新治療が、救世主のように、次々現われかけては、亡霊のように消えてゆく。
                人々はそれらの科学的美辞に幻惑されて、自分達の生命は今にも科学力で解決される様に思ったりする。
                現代人の眼は、大方は近視眼になっている。
                それは、目前の物しか視る事が出来ない症状だ。
                だから近視眼では、科学のイミテーションは解るはずがない。
                視よ、弱体児童の激増や嬰児の死亡率と、眼鏡使用者が世界一だという。
                それで医学は進歩したというのである。

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                「観音力療病とは何ぞや」

                2020.01.01 Wednesday 08:34
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                  「観音力療病という言葉は、開闢以来未だ無かった言葉である。
                  それは、観音力療病なる方法が、開闢以来未だ生れなかったからである。
                  それについて、観音力なるこの力は、いかなるものであるかという事を述べたいのである。
                  即ち、観音力とは観世音菩薩が、ある選ばれたる一個の人体を機関として、救世済民の為揮われる不思議な力である。
                  一体この不思議な力とは何であるかと言うと、それは光と熱と水霊である。
                  この光熱水は、太陽が放射する光熱と、月光のエキスとのコクテルとも言うべきものであって、その霊妙なる光波は、彼のラジュウムや樟、紫外線等の何百倍であるかは測定が出来ない程の治病力あるものである。
                  故に、今日の学問と人智の程度では、到底認識出来得ないものであるから、実地体験より外に真相を把握する手段は無い。
                  実にこの光波こそは超召任△襦
                  故にこの光波によって、一度難病が治癒せられ、又は大奇蹟に遭遇する時、初めて観音力の不思議さと、偉大さを識り得るのである。
                  そうしてこの力は、釈迦も基督(キリスト)もマホメットのいかなる聖者といえども有ってはいなかったものである。
                  その最大理由としては、時期の関係であった。
                  もし、これらの聖者の一人にても揮ったとしたら、その時限り病無き世界となっていたはずである。
                  しかるに、今日もなお依然として、否益々病苦に悩む者衢(ちまた)に充つるの事実は、それを証して余りあるのである。
                  眼に見えずして治病力の強大なる観音力は、実に量り知れない力である。
                  これについて一つの例を挙げてみよう。
                  私が「治病観音力」と紙へ書くその紙を折り畳んで誰でもよいから懐へ入れるとする。
                  そうすると、その文字の意味が光となって活動をなし、その人の手から指から射出する。
                  従って、その人の掌や指が、病人の患部へ触れる時、苦痛はたちまち軽減するのである。
                  故に、医学で治らなかった難病も続々治癒される、という大事実である。
                  かような事を言えば、信じないばかりか、私に抗議を申込む人があるかも知れない。
                  又、当局から誇大視せらるるかも知れない。
                  しかし、事実は枉(ま)げる事は出来ない。
                  百の理論といえども一の事実を枉げる事は、為し得ない訳である。
                  確かに世界の黎明期は来ている。
                  人類全体が光明に浴する時が来ている。
                  この空前な力の顕れが、それを物語って余りあるであろう。」 (「新日本医術書」より)

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                  「治療方法」

                  2019.12.31 Tuesday 08:30
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                    「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。
                    まず初め、拍手を三つ音のせぬ位軽く打ち、観世音菩薩を念じ、左手を患者の右肩へ軽く宛(あ)て、患者の頭を少し下げしめ、右手の人差指を以て、その頭脳の中心点へ向って「この者清まれ」と、三度空中へ書くべし。
                    書くが否や直ちに口先にて、フーッフーッフーッと二、三度息を吹掛け、右手を開いたまま頭上一寸位の空中を、出来る丈速く左右に擦るようにしては息を吹きかける。
                    この時間一分間位にてよし。
                    最初にこれを行う訳は、元来、人間全体の根源は頭脳にあり、いわゆる病原の中府ともいうべき所であるから、まずこれを浄めて取掛るのである。
                    次に患者に対って、既往の症状、経過、苦痛の個所等、成可(なるべ)く詳細に訊ね、それによって患部の病原を、指頭を以て綿密に探査しつつ、探り当てるのである。
                    病原発見と共にその場所へ向って治療を施すのである。
                    治療上の原則としては、最初患部へ向って右の人差指を以て、「この中清まれ」と三回書き頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。
                    この場合皮膚に触れてもよし、触れなくても宜(よ)いのである。
                    かくのごとくして数回繰返し、指頭を患部に軽く当て、指頭に霊を集注させ、病原を溶すごとき心持を以て軽圧するのである。
                    この場合病原はほとんど水膿溜結であり、指頭にて触圧せば多少の痛みがあるので、よく判るのである。
                    かくして息にて塵埃(じんあい)を吹払うごとく、治療中、何回となく吹けばよいのである。
                    これを繰返す裡(うち)に、病原たる膿結は必ず多少共溶解するものである。
                    溶解しただけは患者は軽快を感じ、それだけ治癒したのである。
                    ただし、右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配してよいので、場合により掌を利用してもよいのである。
                    療術せんとする時首に懸る観音力御守こそは、霊光の受信機とも言うべきものであって、この御守を通して、観音力霊光が術者の指頭及び掌より放射参透するのである。
                    次に施術する場合の心の持方について、一言せんに、この患者を治癒せば、観音運動の為になるとか、又は物質を提供するならんなど想像する事は、大変不可であって、ただ患者の病苦が除去され、治癒され救われるよう、念願するだけが良いのである。
                    何となれば、観世音菩薩の大慈悲は、一切衆生を無差別的に救わせられる大御心であるから、人に依っての別け隔ては決して無いのである。」 (「新日本医術書」より)

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                    「本療法と一般指圧療法との比較」 

                    2019.12.30 Monday 08:02
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                      「近来、各所に行われつつある一般指圧療法は、効果も相当にあり、随って世人の信用もすくなくないのであるが、本療法と比較すれば、総てにおいてはなはだしい懸隔(けんかく)があるのである。
                      それはなぜであるかというと、一般指圧療法は人体電気即ち、人間個人の霊力が、その指頭より放出するによるのであるから、治療を行う場合術者は非常なる努力を以て、精神統一をなし、施術するを以て術者の霊的エネルギーを消耗する事はなはだしく、非常に疲労を感ずるものであるから、余程健康者でない限り困難な点があるのである。
                      従って、時間もそれだけ長きを要するのは勿論である。
                      しかるに本療法は、最背後に観世音菩薩が在しまして、その不可思議治病カを、仁斎(註 明主様のこと)を通じて術者に無限に供給し給うのであるから、別段努力の必要がなく、ただ、自分は仲介機関であるという意識の下に施術すればよいのであるから、この点実に簡にして易々たるもので、それにも係らず、その効果は実に絶大であるのである。」 (「新日本医術書」より)
                       

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