「哲学的に観たる本医術」

2020.07.17 Friday 05:45
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    しからば、それはどういう訳であるか、その要領を出来るだけ簡単にかいてみよう。
    そもそも人間は、総ての事物を観察する場合、多くは事物そのものの直観は為し難いものである。
    何となれば、いかなる人間といえども、現在有する観念なるものは決して無色ではあり得ない。
    即ち教育、習慣、伝統等、あらゆるそういう類のものが、綜合的に潜在し、それが想念中に、棒のごとく固形化しているものである。
    従って、事物を観察する場合、その棒なるものが大なり小なり必ず影響する事は免れ得ないのである。
    故に、ともすればその綜合観念が、事物の実体そのままを把握させないのである。
    一層判り易くいえば、右の棒が色眼鏡となるのである。
    この意味において、誤りなく事物の実体を把握するというには、綜合観念の棒に微塵も煩わされない境地に吾を置かなければならない。
    しからば、その様な境地の吾とはいかなるものであるか、ベルグソンはそれを名付けて刹那の吾というのである。
    それは過去も未来もない否思惟しない所の現在の吾、虚心の吾である。
    その様な刹那の吾にして事物を観る場合、はじめて邪魔の入り得ない直観そのものであるというのである。
    故にまず人間として、事物の正しい観方はこれ以外にはないとしているのである。
    次に、万物流転とはいかなる意味であるかというに、それは森羅万象一切の事物は常に流転しつつ、一瞬といえども止まる事がないというのである。
    即ち昨日の世界も昨日の日本も昨日の吾も、勿論今日の世界でもなく、今日の日本でも今日の吾でもない。
    昨日の文化も政治も経済も芸術も医学も、勿論今日のそれではない。
    この意味において、昨日は真理であったと思う事も、今日は破壊されているかも知れないと共に、破壊されていないかも知れない。
    それは、もし破壊されているとすれば、それは真理ではなく似而非真理であったからである。
    又、破壊されていない真理は真理そのものであるか、少くとも似而非真理よりも真理に近いものである事は確実である。
    又、こういう事もいえるであろう。それは真理の時間的表われである。
    たとえば幾十年、幾百年無上の真理であるとしていたものも、それが逆理であった事が明かになるというような例も幾多の歴史が物語っている。
    以上説いたごときベルグソンの哲学を通してみれば本医術と西洋医学との真相を把握する上に、すくなからぬ便利があると思うのである。
    ここに、注意すべき事がある。
    それはこの項の始めにかいたごとく、患者が絶対信頼をする医療によって治らない結果、本医術の治療を求めるのが大多数であるから、こういう訳になろう。
    それは信頼する医術で治らないで反って疑惑を以て受ける医術で治るというまことに奇なる結果となるのである。
    この一事を以てみるも、全く治病力の差違のしからしむるところであろう。
    故に本医術の治病力は、精神作用を超越するという事になるであろう。」 (「明日の医術 第2編」より)

    category:戦前の医学論文 | by:mistoshicomments(0) | -
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