「栄養学」

2020.04.10 Friday 06:16
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    今一つの例を挙げてみよう。ここに機械製造工場があるとする。
    その工場は原料たる、鉄や石炭を運び込み、それを職工の労作と、石炭を燃やし機械を運転し種々の順序を経て初めて一個の完全なる機械が造り出されるのである。
    それが工場の使命であり、工場の存在理由であり工場の生活力である。
    これがもし完成した機械を工場に運び込んだとすると、工場は職工の労作も機械の運転も必要がない。
    煙突からけむりも出ないという訳でその工場の生活は無いのである。
    従って職工も解雇し、機械も漸次錆ついてその工場の存在理由は消滅するであろう。
    人間もこれと同様であって、栄養食を摂るとすると、本来栄養食とはより完成した食物である。
    しかもビタミンのごとき栄養素は特に完成されたものであるから、体内の工場は労作の必要がないが故に、機能の弱るのは当然である。
    故に、この意味において人間は、なるべく原始的粗食を摂って体内機能がそれを完全栄養素に変化すべく活動させるように為すべきである。
    その活動の過程そのものこそ、人間の生活力となって現われるからである。
    又、近来、食物を出来るだけ咀嚼すべしというが、これも大いに誤っている。
    何となれば余りによく咀嚼すれば胃の活動の余地が無くなるから胃は弱るのである。
    従って半噛み位即ち普通程度がよいのである。昔から「早飯の人は健康だ」といわれるが、これらも一理あるのである。
    又、今日の栄養学は、穀類の栄養を軽んじている。
    栄養といえば副食物に多く在るように思って種々の献立に苦心しているのであるが、これも謬っている。
    実は、穀類の栄養が主であって、副食物は従である。
    むしろ、副食物は、飯を甘(うま)く食う為の必要物であるーと解してもよいのである。
    この例として、私は先年日本アルプスへ登山した際、案内人夫の弁当をみて驚いたのである。
    それは白い飯のみであって、全然菜は無いのである。
    梅干一個も無いのである。私は「飯ばかりでうまいか」と訊(き)くと「非常にうまい」と言うのである。
    それで彼らは十二、三貫の荷物を背負って、頗る嶮路を毎日登り降りするのであるから驚くべきである。
    これらの事実をみて、栄養学者は何と説明するであろう。
    右のごとく、菜がなく飯ばかりで非常にうまいという事は一寸不思議に思うであろうが、それはこういう訳である。
    元来人間の機能なるものは、環境に順応するように出来ているから、粗食を持続すれば、舌の方が変化してそれが美味となるのである。
    この舌の変化という事は、あまり知られていないようである。
    故に、反対に美食に慣れると、それが段々美味しくなくなるので、それ以上の美食を次々求めるという、贅沢な人の例をよく見るのである。
    故に、私のこの説を肯定するとすれば、現在最も重要問題とされている戦時食料政策に対しても、いかに絶大な利益あるかは、量り知れないであろう。

    category:戦前の医学論文 | by:mistoshicomments(0) | -
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