「観音力療病は何故治る乎」

2020.01.27 Monday 08:31
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    「古来、病気の原因については、宗教上からも医学上からも種々論議されて、今以て尽くる所がないのである。
    宗教ではほとんどが罪穢説であり、医学では大体黴菌説である。
    しかし、医学の黴菌説は、実際から言って疑問の余地が大いに在るのである。
    何となれば、官民協力し、あれ程撲滅に努力しつつある彼の肺結核にしろ、所期の成績を挙げ得ないという事は、病原その物は黴菌以外にあるからである。
    しかし、未だ発見されていないばかりである。
    故に、いか程厳重な消毒を行うといえども、罹病する者は罹病し、別段、黴菌に介意しなくとも、罹病しないものはしないという例は、何を暗示しているのであろうか。
    又、流行性風邪は、ほとんど全部の人間が侵されていると言ってよい位で、この場合いかにマスクをかけ、含嗽(うがい)を厳重にする者といえども、斉(ひと)しく罹病する所を見れば、黴菌罹病論は、病原の一部的説明ではあるが、断じて病原の全体を掴んだとは言えないのである。
    それに引換え、宗教の罪穢説は、病原の本体を喝破したるもので、吾人といえどもこれに一点の異議は無いのである。
    しかるとせば問題は、その罪穢をいかに払拭し、解消するかと言う事であって、これに依て肺結核の撲滅も、その他の伝染病もあらゆる病気の根絶も可能である事は理論と経験によって断言し得るのである。
    しからば、その罪穢を解消する方法としては、いかなるものでありや、と言えば、ただ一つより有り得ないので、それは、神の御赦しのみである。
    しかし、一口に神と言うが、神にも八百万あって、それぞれの役目を、分担管掌(かんしょう)され給うのである。
    そうして、罪穢を赦し給う権能を有ち給う神は、天地間、ただ一柱より在さないのである。
    それは、宇宙の支配者たる主の神にして、その主の神の表現神で被在(あらせ)らるるのが、畏くも天照皇大神様で被在らるるのである。
    天照皇大神様は、独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在らるるを以て、直接、人間への御救いの業は不可能の御事が神律なのである。
    何となれば、人民とは余りに隔絶し給うが故である。畏多き例にはあれど、一天万乗の天皇が、御親(おんみずか)ら人民に対して玉手を染め給うの、不可能の御事と等しいのである。これにおいてか、洽(あまね)く、世界万民を救わせ給う御心の現れとして、救いの執行者を遣(つか)わされ給うたのである。
    それが観音、阿弥陀、釈迦、基督(キリスト)、マホメット、その他の各聖者達である。
    しかるに、それら聖者達が、今日まで主神より委任される場合、その時代とその地方とによって限定された事であって、それは主神の御意図であるから、止むを得なかった事である。
    ここで吾々は、現代を凝視する必要がある。
    それは、一切の機構が世界的となった事である。
    しかるに釈迦も、基督も、マホメットも、あらゆる聖者の出現した時代は、未だ一切が世界的までには、到達していなかった事である。
    故に、彼らの教や努力は、いかに価値があったとしても、それは、地方的であり、暫定的でもあった事は、止むを得なかったのである。
    故に元々、地方的、暫定的必要から生れた宗教であるとしたら、今日のごとき、世界的の時代を救うとしても、それは不可能である。
    力が足りないからである。
    恰(あたか)も、一国の必要によりて生れた政治形体を、全世界に行うとしても、出来得ないと同じ訳である。

    category:戦前の医学論文 | by:mistoshicomments(0) | -
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