観世音菩薩.2

2019.04.03 Wednesday 09:27
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     茲で昔から人口に膾炙されている竜宮の乙姫という女神の事をかかねばならないが、之に就ては少し遡ってかく必要がある。それは伊邪那岐、伊邪那美尊から生まれた五柱の男女の兄弟がある。即ち長男は伊都能売天皇、次男が天照天皇、三男が神素盞鳴尊、長女が稚姫君(ワカヒメギミ)命、二女が初稚姫命である。そこで伊邪那岐尊は最初伊都能売尊に日本を統治させ、次で天照天皇、次で天照皇后の順序にされたのであるが、素盞鳴尊には最初から朝鮮を統治させたのである。
     そうして素尊の妻神をされたのが勿論朝鮮で出生された姫神であって、此姫神が弟の妻神となった。言わば弟姫であるから之を詰めて音(乙)姫と呼ばれたのであるが、昔から乙米姫とも言われたが、之は未婚の時に朝鮮名の中に米の字が入っていたからであろう。
     右の如く弟姫即ち音姫は夫神が流浪の旅に上られたので、それからは孤独の生活となったのは勿論で間もなく故郷の朝鮮へ帰り壮麗な城郭を築き、宮殿内に多くの侍女を侍らせ空閨を守っていたのである。処が其頃信州地方の生れである太郎なる若者が漁が好きなので、常に北陸辺りの海岸から海へ出ていた。すると或る時大暴風に遭い辛うじて朝鮮海岸に漂着して救われたが、当時としては日本人も珍しがられていた事とて遂に男禁制の王城内に迄招ぜらるるに至ったのも無理はない。処が当時女王格である音姫様は寂寥に堪えなかったからでもあろうが、兎に角御目通りを許された処、太郎という若者が世にも稀なる美貌の持主であったから堪らない。一目見るより恋慕の情堪えやらず遂に何かの名目で城内に滞在させる事となった。
     其様な訳で太郎に対する愛情は益々熱を加え、日夜離さず御傍に侍らせるという訳で此事がいつしか人民の耳に入り、漸く非難の声喧しくなったので、茲に絶ち難き愛着を絶つ事となり、素晴らしい宝物を箱に納め土産物として太郎に遣り帰国さした。之が彼の有名な玉手箱である。又之を開けると白髪になるなどという伝説は誰かの作り事であろうし、又浦島という姓は朝鮮は日本の裏になっているからで、後世の作者がそういう姓を付けたのであろう。
     そうして音姫が朝鮮の女王格であった時代は日本も支那も圧倒されて了い、印度以東は朝鮮の勢力範囲といってもいい位であった。勿論それは素盞鳴尊が一時飛ぶ鳥も落す程の勢いであったからでもある。恰度其頃印度の経綸を終えた観自在菩薩は帰国しようとして南支方面に迄来た処、まだ日本は危険の空気を孕んでいる事が分ったので暫く其地に滞在する事となったので、其時からが観世音の御名となったのである。という訳はつまり印度滞在中は自在天の世を客観していたので観自在といい、今度は音姫の世を静観する事となったので観世音と名付けられたのである。即ち観世音を逆に読めば音姫の世を観るという意味になる。そうしておいて菩薩は、南支那地方民に教を垂れ給うた処、何しろ徳高き菩薩の事とて、四隣の民草は親を慕うが如く追々寄り集う有様で此時から観音信仰は遂に支那全土にまで行き渡ったのである。処が御年も重ね給い之迄で経綸も略々成し遂げられた事とて、遂に此土地で終焉され給うたのである。そうして今日と雖も支那全土即ち満州蒙古西蔵(チベット)辺に到る迄観音信仰のみは依然として衰えを見せないのは深い理由のある事であって、之も追々説くが、茲で遺憾な事は南支地方に観音の遺跡がありそうなものだが、全然無いのは全く其地方が其後幾度となく兵火に見舞われ地上にある凡ゆる物が消滅した結果で亦止むを得ないのである。
     

    category:経綸について | by:mistoshicomments(0) | -
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