善と悪.2

2019.09.17 Tuesday 08:31
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     斯様に人の眼さえ誤魔化せば、如何なる事をしても知れないという事であれば、出来るだけ悪事をして、栄耀栄華に暮す方が得であり、怜悧(りこう)ーという事になる。又死後人間は零となり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生する事になる。然るに如何程悪運強く、一時は成功者となっても、長い眼でみれば必ず何時かは没落する事は例外の無い事実である。第一悪事を犯した者は、年がら年中不安焦燥の日を送り、何時何どき引張られるか判らないという恐怖に怯え、良心の呵責に責められ、終には後悔せざるを得なくなるものである。よく悪事をしたものが自首したり、捕まってから反って安心して刑罰にあう事を喜ぶ者さえある事実を、吾等は余りに多くみるのである。それは即ち神より与えられたる魂が、神から叱責さるるからである。何となれば魂は霊線によって神に通じているからである。故に悪を行う場合、完全に人の眼を誤魔化し得たとしても、自分の眼を誤魔化す事は出来ないから、人間と神と霊線で繋がっている以上、人間の如何なる行為も神には手にとる如く知れるからで、如何なる事も閻魔帳に悉く記録さるるという訳である。この意味に於て悪事程割りの悪い事はない訳である。(神と魂との関係に就いては後段「霊線」の項目に於て詳説する)
     併し乍ら世の中には斯ういう人もある。悪事をしようとしても、若しか行り損って世間に知れたら大変だ、信用を落し非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり、悪事をすればうまい事とは知り乍ら、意気地がなくて手を出し得ないという人もあり、又世間から信用を得たり、利益になるという観念から善を行う功利的善人もある。又人に親切を行う場合、斯うすれば何れは恩返しをするだろうーと、それを期待する者もあるが、この様な親切は一種の取引であって、親切を売って恩返しを買うという訳になる。以上述べたような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりする訳ではないから、悪人よりはずっと良いが真の善人とはいえない。先ず消極的善人とでもいうべきであろう。従ってこの様な善人は、神仏の御眼から見れば真の善人とはならない。神仏の御眼は人間の肚の底の底まで見通し給うからである。よく世間の人が疑問視する 「あんな好い人がどうしてあんなに不幸だろう」 などというのは、人間の眼で見るからの事で、人間の眼は表面ばかりで肚の底は見えないからで、この種の善人も詮じ詰めれば 「見えざるものは信じない」 という心理で、何等かの動機に触れ、少々悪事をしても人に知れないと思う場合、それに手を出す憂いがある以上、危険人物とも言える訳である。之に反し見えざる神仏を信ずる人は、人の眼は誤魔化し得ても神仏の眼は誤魔化せないという信念によって、如何なるうまい話と雖も決して乗らないのである。故に現在表面から見れば立派な善人であっても、神仏を信じない人は何時悪人に変化するか判らないという危険性を孕んでいる以上、やはり悪に属する人と言えよう。
     以上の理によって真の善人とは 「信仰あるもの」 即ち見えざるものを信ずる人にしてその資格ありーと言うべきである。故に私は現在の如き道義的観念の甚だしき頽廃を救うには、信仰以外にないと思うのである。
     そうして今日まで犯罪防止の必要から法規を作り、警察、裁判所、監獄等を設けて骨を折っているが、之等は丁度猛獣の危険を防止する為檻を作り、鉄柵を取廻らすのと同様である。とすれば犯罪者は人間として扱われないで、獣類同様の扱いを受けている訳で、折角貴き人間として生まれ乍ら獣類に堕して生を終るという事は、何たる情け無い事であろう。人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、全く人間とは 「神と獣との中間である生物」 である。此意味に於て真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。従って、神性人間の集る所ーそれが地上天国でなくて何であろう。
     

    category:霊界について | by:mistoshicomments(0) | -
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