「神憑り」

2020.11.23 Monday 06:47
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    次に、○○宗の行者などは、似而非(えせ)神憑りを作るのを得意としている。
    その方法は経文や題目をしきりに唱えさせ、遂に自己以外の者が喋舌(しゃべ)り出すのである。
    すると口が切れたといって本人は固より、周囲の者まで非常に喜び芽出度いといって祝う事さえある。
    これらは勿論、狐霊の憑依であるが、狐霊によっては、一種の神通力のごときものを持ち、人間の過去の事など当てるので、本人も他の者も真正の神が憑ったと思うのである。
    しかしながら、狐霊の憑依は往々にして精神病になり易いので、○○宗の熱烈な信者に精神病の多いのは右の理によるのである。
    私は、若い頃歯痛に悩んだ事がある。
    その時東京の有名な歯科医七八軒を歩いたが、どうしても治らないので、人に勧められ○○宗の行者に依頼した事があった。
    その時行者は私に向って大声を出して拝みながら、時々小声でひそひそと誰かに何かを言うのである。
    私は、耳を潜めて聴くといわく「お前ら二人は、この歯の痛みを治せば稲荷に祀ってやるぞ、名前はお前は○○稲荷、お前の方は○○稲荷とするから一生懸命治すんだぞ」としきりにいうのが聞えた。
    私はその時分霊的知識がないから、不思議な事を言うものかなと思ったが、後に到って判ったのであるが、これらは全く野狐(やこ)を使って手柄をさせ、その褒美として稲荷に祀ってやるのである。
    元来 野狐は、人間でいえば宿無し同様の浮浪人であるから、稲荷に祀られる以上、正一位稲荷大明神という立派な位を貰い、人間に崇められ、飲食物も豊富に供えられるから、稲荷に祀られたい一心で懸命に病気を治そうとするのである。
    故に、行者等に委嘱し病を治すという事は右のごときものであるから、病気によっては治る事もあるが、後が恐ろしいのである。
    それは狐霊などと関係を結ぶにおいて、少し信心を怠ると何らかの災や苦悩を与え、信仰を続かせようとするのでついには不幸なる運命に陥る事が多いのである。
    何となれば、万物の霊長たる人間が、人間以下である四足を拝むにおいて、霊的に霊層界の地獄に堕ちるからである。

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    「神憑り」

    2020.11.22 Sunday 07:03
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      「神憑りについては大いに注意しなければならないのである。
      それは神憑りなるものは、一般人はほとんど無知識であるから騙され易いのである。
      故にそれを奇貨として、世間何々の行者、何々の修験者輩が、いかがわしき迷信や邪教を鼓吹し世を惑わすものが少なからずあるから、私は彼らの内幕を暴露しようとするのである。
      それは大抵、病人や信者を前にして生神様然と構え、神様がお憑りになったとか、神様が乗憑(のりうつ)り又はお下(さが)りやお降(くだ)りになった…などと称え、
      異様の挙動をなし、さも神様らしく御託宣を吐くのである。
      その場合「此方(こなた)は何々の神であるぞよ」などというので、局囲の善男善女は神様の御降臨と思い込み、随喜渇仰(かつごう)するという訳であるが、何ぞ知らん、これらはほとんど狐狸、天狗の類であって、決して真なる神ではないのである。
      しかしながら、正神といえども稀には人間に懸り給う事もあるが、その場合は何ら異様な挙動等はなく、憑依せる本人さえ意識しない位平静なものである。
      しかも正神の憑依は常住的又は普通人に懸る事はなく、国家の重大事又は特殊使命の人間に対し、ある場合に限るのである。
      彼の有名な和気清麻呂が宇佐八幡に詣で、神示によって道鏡の野望を画餅に帰せしめた事や、畏多くも神功皇后が三韓征伐の砌(みぎり)、御神示によって御征途に登らせ給いしごときは、真の神憑りであらせ給うのである。
      又 近くは、松岡外相が連盟脱退の際のごとき、大東亜戦争の始った十二月八日における戦略のごときは、いずれも正しい神懸りによる事と思うのである。

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      「祖霊の戒告」

      2020.11.21 Saturday 07:04
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        次に、こういう例があった。それはある家庭での事であるが、その家の現戸主である四十歳位の男、仏壇があるに拘わらず、それに向って手を合した事がないので、その娘が心配し、右の戸主の弟と相談の上、弟の家に移したのである。
        しかるに、程経て弟は兄の家に赴(おもむ)き、祖先伝来の仏壇を弟に確かに移譲したという証明書を書いてくれ…と兄に要求したのである。
        そこで兄は承諾し、筆をとって紙に書こうとする刹那、突如その手が痙攣を起し舌が吊り、書く事もどうする事も出来なくなったのである。
        それから一二年間、あらゆる療法を受けても治らない為、私の弟子の所へ治療を求めに来、その際右の娘が語ったという事を、弟子から聞いたのである。
        これは全く祖霊が正統である兄の家から、一時的ならいいが、永久に離れるという事は承知が出来ないからそうしたのである。
        何となれば、右のような結果として、将来家系が紊れる事になるからで、家系が紊るれば家が断絶するという危険があるからである。
        次に、世間よく宗教的病気治し又は行者等が、大抵の病気は祖霊の憑依のように言う事があるが、誤りもはなはだしいのである。
        何となれば、祖霊といえどもその意志感情は、現世の人間と変りはないのであるから、常に子孫を愛し、子孫の為を思うのは勿論である。
        従って、子孫の行為のあやまれる場合、戒告等の為、やむに止まれず憑依するのであるという事を知るべきである。」 (「明日の医術 第3編」より)
         

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        「祖霊の戒告」

        2020.11.20 Friday 05:14
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          「元来祖霊は我(わが)子孫に対し、幸福である事を欲するあまり、不幸の原因である過誤や罪悪を行わしめざるよう常に警戒しているものである。
          しかるにその子孫がたまたま悪魔に魅入(みい)られ、天則違反の行為ありたる時、それを戒告する為と、犯した結果としての罪穢の払拭をさせようとするのである。
          それらの方法として、病気又はその他の苦痛を与えるのである。
          これについて二、三の実例によって説明してみよう。
          幼児又は小児が、感冒のごとき熱性病に罹るとする。
          普通の浄化作用であれば、本療法によって効果顕著であるに拘わらず、予期のごとき効果がない事がある。
          その場合、特異な症状としては、頻繁(ひんぱん)な嘔吐である。
          いかなる食餌を与えても吐瀉(としゃ)してしまう。
          従って、衰弱日に加わり、ついに生命を失う事になるのである。
          そうしてこの症状は、ほとんど助かる見込はないといってもいいのである。
          これは全く、右に説いた祖霊の戒告であってその原因としては、父親が夫婦の道を紊(みだ)したる罪による事が多いのであって、世人はこの事を知らないのであるが、注意するにおいてすくなからずある事を知るであろう。
          全く一時的享楽の為、大切なる愛児の生命をまで犠牲にするという事は、国家の為、自己の為、まことに遺憾の極みであるが、これは全く霊的知識がない為である。
          かような場合、祖霊としては一家の主人を犠牲にする事は一家の破滅となるから、止むを得ず子女を犠牲にするのである。

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          「守護神」

          2020.11.19 Thursday 05:17
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            次に又、本副両守護神の外、正守護神なるものが常に守護しているのである。
            それは、祖先の霊であって、人が生れるや、それを守護すべく、祖霊中の誰かがその時の祖霊の重なる者から選抜されるのである。
            又霊が自己の任意で正守護神となる場合もあるが、これは大抵動物霊である。
            その際の動物霊は、初め人霊であって、龍神又は狐霊と化し、狐霊は稲荷に祀られて守護霊となるのである。
            龍神で守護する場合は、青大将又は白蛇となって守護する事が多いのである。
            よく旧(ふる)い家などに青大将が永く住んでおり、性質柔順で、何ら人畜に危害を加えないものである。
            しかるにその訳を知らない世人は、普通の蛇と思い殺す事があるが、蛇といえども祖霊である以上、非常に立腹するのである。
            その結果祟る事がよくあるので注意すべきである。
            従って、青大将を殺してから、不幸や禍が次々起り一家没落するというような例が田舎などにはよくあるのである。
            又、白龍は弁財天として祀られており、仲々霊験灼(あらた)かなものであるが、これは、神格を得ているからである。
            そうして、正守護神は守護する上において、常に暗示を与えるものである。
            よく夢によって知らせたり又虫が知らせるといって心に泛(うか)ばせたり、危難を救ったりするので、これらも注意すれば誰にも肯けるものである。」 (「明日の医術 第3編」より)

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            「守護神」

            2020.11.18 Wednesday 05:49
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              「人間の善悪を説く場合、霊的方面から解釈する時、守護神なるものを説く必要がある。
              守護神又は守護霊といい、読んで字のごとく、人間を常に守護しているものである。
              人間がこの世に生れてくるという事は、神からの受命による事はさきに説いた通りである。
              この神から受命された霊魂を称して本守護神というのである。
              又、普通二三歳頃から憑依する霊がある。
              これは、人間以外の動物霊であって、私の長い経験によれば、狐・狸・犬・猫・馬・牛、鼬(いたち)等の獣類及び種々の龍神、天狗、あらゆる鳥類等が重なるものである。
              大抵は一人に一種であるが稀には二、三種憑る事もある。
              これを名付けて副守護神という。
              こういう事は、現代人には信じ難いであろうが、これは事実であるからどうする事も出来ないのである。
              そうして本守護神は絶対善性であり、良心と名付けられているものである。
              又副守護神は反対に絶対悪であって、邪念と名付けられているものである。
              仏教においては良心を称して菩提心又は仏心といい、邪念を称して煩悩というのである。
              この相反する想念が常に心中で闘っている事は今更いうまでもないが、これはいかなる訳であるかというと、人間の生存上、善心のみにては活動が起らない。
              何となれば、物質欲が起らないから競争心も優越欲も享楽欲も発生しないからである。
              しかるに、悪心なるものは、物質的欲望が本性であるから、副守護神なるものの憑依がなければならない理由があるのである。
              故に、端的にいえば、人間とは神と動物との中間生物であるから、いかなる善人といえども幾分かの悪は必ずあり、いかなる悪人といえども幾分かの善はあるものである。
              そうして善悪の両性が心中において断えず戦っていて、善が勝てば平安と幸福を得て栄え、悪が勝てば不安と不幸を生み、没落の運命を辿るのは勿論である。
              故に、この意味において悪人は弱者であり、善人は強者といえるのである。
              何となれば、善人は悪を征服するだけの強さがあり、悪人は悪に征服される弱さがあるからである。
              しかるに、世間往々善人を弱者となし、悪人を強者と思い勝ちであるが、これは誤っているのである。

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              「神と悪魔」

              2020.11.17 Tuesday 05:17
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                次は、悪魔についてかいてみよう。
                悪魔の心裡は一言にしていえば、神の御意志とすべてが相反するという事である。
                即ち人に災厄を与え苦しめ、絶望せしめ、不幸のドン底に陥れ、遂には滅亡さしてしまうという、実に人間として想像し得られない残虐性をもっているものである。
                故に、一点の慈悲、一掬(いっきく)の涙さえないので、それが悪魔の本性であるからやむを得ないのである。
                右のごとく人間を苦しめる事が、悪魔にとっては、実に愉快で、無上の喜びであるらしいのである。
                右のごとく、絶対愛の神の御意志と、絶対悪の悪魔の意志とは両々相対して、常に葛藤を続けつつあるのが、今日までの人類社会のあるがままの姿である。
                故に、これを大にしては国際的となり、社会的となり、小にしては個人的にもなるのである。
                この意味において、個人の小さなる意志想念の世界においても、常に神と悪魔と対立し、闘争している事は、何人も日常体験しているところであろう。
                そうして個人においては神の意志は良心であり、悪魔の意志は邪念であるから、良心が勝てば永遠の栄えとなり、邪念が勝てば身の破滅となる事はいうまでもない。
                何となれば、神の御意志は栄えを好み給い、悪魔の意志は破滅を喜ぶからである。
                右のごとく、私は神と悪魔について、私の想像をかいたのである。
                次に、人間の心中における、神と悪魔即ち善と悪とについて、徹底的に説いてみよう。」(「明日の医術 第3編」より)
                 

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                「神と悪魔」

                2020.11.16 Monday 05:19
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                  又、自己の願望を神に祈願する場合、正しからざる事、たとえていえば人を呪いあるいは自己の欲望の為社会を毒し、他人に迷惑をかけるような事等の願を聞届け、幾分でも成就させる神は邪神であって、正神においては正しき願事以外は聴届け給う事はないのである。
                  以前私は友人から聞いたのであるが、盗賊の常習者の団体が講中を作って、ある有名な神社へ参拝するのであって、そうする事によって、容易に捕まらない御利益があるというのである。
                  これらは実に怪しからぬ事で、神様に罪があるのか人間に罪があるのか分らないが、真実とは思われない位の話である。
                  この意味によって、正しい神仏か正しい宗教であるかという事は、何よりも常識によって判断するのが一番間違いないのである。
                  奇嬌なる言説や態度等は勿論、いささかなりとも国家社会の秩序に反するような点があれば、それは邪教と見なすべきである。
                  又、世人の気の付かないところに反国家的の邪教がある。
                  それは何であるかというと、朝から晩まで拍子木を叩いたり、又は数時間に渉って経文を読む事を可としている信仰である。
                  これらは無益に時間を空費する結果、国家の生産力に影響する事は勿論である。
                  右のごとき愚昧なる信仰は一部分であろうが、もし多数人が行おうとすれば、生産増強上由々しき大事であろう。
                  時局重大の折柄、当局においても一考されたいと思うのである。
                  そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。
                  ちょうど、子に対する親の愛の一層拡充されたものといえるのである。
                  故に、罰をあてるという事は正神には決してないのである。
                  しかしながら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷うか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害を受けるというその事が、罰が当ったように見えるのである。
                  しかしこういう事もあるから注意すべきである。
                  それは邪教信仰者が、その信仰から放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく災害を蒙らせる事がある。
                  それらは全く罰が当ったと同じ意味であるが、これらは脅迫信仰に多いので、そういう事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番それを突破するにおいて邪神は手を引くから、その後は何らの障りはないのである。
                  要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行を為すにおいて、天下恐るべきものはないのである。

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                  「神と悪魔」

                  2020.11.15 Sunday 07:04
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                    ここで、参考の為、邪神なるものを解剖してみよう。
                    世間よく神様の罰があたるという言葉があるが、これは邪神系の神様である。
                    何となれば、罰という事は人を苦しめる事であるから、人間に対し、絶対愛より外にないのが正神であるから、そのような事はない訳である。
                    又 金を上げれば病気が治るというような神様も邪神である。
                    何となれば、金を上げれば病気を治すという事は一種の交換条件であって、いわば神対人間の取引のようなもので御利益を売る訳であり、実に浅間しき限りである。
                    これらは正神は聴届け給う事はないので正神は、人間からの報酬や条件などに関わらず、無我愛に救わせ給うのである。
                    右のごとく、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、反対に不幸な結果を来す事も往々あるから、そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。
                    ちょうど、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であって、これらは神様を看板にして行う一種の詐偽的行為といっても差支えなかろう。
                    しかるに、こういう目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣寝入に終るというのが常態である。
                    故に、これを奇貨として布教師等が病人の懐を絞るという行為を見受けるが、実に赦すべからざる罪悪で、世人はかような事に騙されぬよう大いに注意すべきであろう。
                    従って、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰する場合、顕著な御利益があり、いかに考えても、神仏の御加護に違いないと思われるような事があった場合、その感謝の誠を捧げるという意味で金銭又は品物を上げるのが本当である。
                    又、よくその宗教の信者が「その信仰を離れれば罰が当って不幸になる」とか はなはだしきは「一家死に絶える」などというのがあるが、これらは、神が人間を脅迫する事であり、邪神である事はいうまでもない。

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                    「神と悪魔」

                    2020.11.14 Saturday 06:52
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                      「私は、神と悪魔について説いてみるが、これはまことに大胆極まるものと思う。
                      何となれば人間は人間であって神ではない。
                      又同様な意味によって人間は悪魔でもない。
                      従って人間は飽くまで神たる事も得ない代りに、悪魔たり得る事も出来ないのである。
                      ただ一時的神に等しき想念と行為は為し得るものであり、又、一時的悪魔になり得る事もあるであろう。
                      しかるに私は、霊的研究を為しつつあるうちに神の御意志とはいかなるものであるか、又、悪魔の意志なるものもいかなるものであるかを想像し得らるる位の観念を得たと思うから、それをここに説こうとするのである。
                      しからば、神の意志とは何ぞや。
                      いうまでもなく絶対愛と慈悲そのものである。
                      しかしながら、私のいう神とは正しい神の事であって、世人は、神といえば全部が正しいものと想うようであるが、実は等しく神といえども、正神もあれば邪神もあるのである。本居宣長(もとおりのりなが)の歌に、八百万神はあれども心せよ 鳥なるもあり蟲なるもありとあるが、全くこれらを詠じたものであろう。
                      そうして今日までは、むしろ邪神の方が多く、正神は少なかったのである。
                      何となれば夜の世界であったからである。
                      ここで、今一つ重要な事がある。それは一神説と多神説であって、キリスト教のごときは一神説であり、日本神道はほとんど多神説である。
                      これはどちらにも理由はあるのであるが、日本だけでいえば多神説が正当である。
                      それは神は一神にして多神であるという説が本当であるからである。
                      そうして人間界に階級があるごとく、神にも階級がある、その階級は私の研究によれば九十一あるのである。
                      昔から八百万の神といわれるが、全くその通りであろう。

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