「治療方法」

2019.12.31 Tuesday 08:30
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    「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。
    まず初め、拍手を三つ音のせぬ位軽く打ち、観世音菩薩を念じ、左手を患者の右肩へ軽く宛(あ)て、患者の頭を少し下げしめ、右手の人差指を以て、その頭脳の中心点へ向って「この者清まれ」と、三度空中へ書くべし。
    書くが否や直ちに口先にて、フーッフーッフーッと二、三度息を吹掛け、右手を開いたまま頭上一寸位の空中を、出来る丈速く左右に擦るようにしては息を吹きかける。
    この時間一分間位にてよし。
    最初にこれを行う訳は、元来、人間全体の根源は頭脳にあり、いわゆる病原の中府ともいうべき所であるから、まずこれを浄めて取掛るのである。
    次に患者に対って、既往の症状、経過、苦痛の個所等、成可(なるべ)く詳細に訊ね、それによって患部の病原を、指頭を以て綿密に探査しつつ、探り当てるのである。
    病原発見と共にその場所へ向って治療を施すのである。
    治療上の原則としては、最初患部へ向って右の人差指を以て、「この中清まれ」と三回書き頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。
    この場合皮膚に触れてもよし、触れなくても宜(よ)いのである。
    かくのごとくして数回繰返し、指頭を患部に軽く当て、指頭に霊を集注させ、病原を溶すごとき心持を以て軽圧するのである。
    この場合病原はほとんど水膿溜結であり、指頭にて触圧せば多少の痛みがあるので、よく判るのである。
    かくして息にて塵埃(じんあい)を吹払うごとく、治療中、何回となく吹けばよいのである。
    これを繰返す裡(うち)に、病原たる膿結は必ず多少共溶解するものである。
    溶解しただけは患者は軽快を感じ、それだけ治癒したのである。
    ただし、右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配してよいので、場合により掌を利用してもよいのである。
    療術せんとする時首に懸る観音力御守こそは、霊光の受信機とも言うべきものであって、この御守を通して、観音力霊光が術者の指頭及び掌より放射参透するのである。
    次に施術する場合の心の持方について、一言せんに、この患者を治癒せば、観音運動の為になるとか、又は物質を提供するならんなど想像する事は、大変不可であって、ただ患者の病苦が除去され、治癒され救われるよう、念願するだけが良いのである。
    何となれば、観世音菩薩の大慈悲は、一切衆生を無差別的に救わせられる大御心であるから、人に依っての別け隔ては決して無いのである。」 (「新日本医術書」より)

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    「本療法と一般指圧療法との比較」 

    2019.12.30 Monday 08:02
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      「近来、各所に行われつつある一般指圧療法は、効果も相当にあり、随って世人の信用もすくなくないのであるが、本療法と比較すれば、総てにおいてはなはだしい懸隔(けんかく)があるのである。
      それはなぜであるかというと、一般指圧療法は人体電気即ち、人間個人の霊力が、その指頭より放出するによるのであるから、治療を行う場合術者は非常なる努力を以て、精神統一をなし、施術するを以て術者の霊的エネルギーを消耗する事はなはだしく、非常に疲労を感ずるものであるから、余程健康者でない限り困難な点があるのである。
      従って、時間もそれだけ長きを要するのは勿論である。
      しかるに本療法は、最背後に観世音菩薩が在しまして、その不可思議治病カを、仁斎(註 明主様のこと)を通じて術者に無限に供給し給うのであるから、別段努力の必要がなく、ただ、自分は仲介機関であるという意識の下に施術すればよいのであるから、この点実に簡にして易々たるもので、それにも係らず、その効果は実に絶大であるのである。」 (「新日本医術書」より)
       

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      「日本医術新生の時期」

      2019.12.29 Sunday 09:21
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        「彼の明治維新は、鎖国の夢を醒(さま)して一大転向を吾らの国にさしたのである。
        それは言うまでもなく、西洋文化による一切の革新であった。しかもそれは、六拾余年を閲(けみ)した今日、最早一段落となった事は余りにも瞭(あきら)かである。
        であるから、無差別的に模倣や吸収をして来た西洋文化の再認識と、その清算をしなければならない時が来たのだ。
        それは役立つ物は残し、役立たないものは捨て去る事なのだ。
        そうして、その帰結としての世界各国の長を綜合して、ここに新日本文化の創造課程とその拡充に驀進(ばくしん)しなければならないのである。
        そうして、その鋒鋩(ほうぼう)は既に現われかけている。
        見よ、産業の躍進もその一つである。文教の日本化も、政治的革新も皆、その顕(あらわ)れのそれでなくて何であろう。
        しかしながら、飜(ひるがえ)って我建国以来の歴史を覧た時、そこに何ものを見出すであろう。
        類例無き万世一系の君主を仰ぐ、国民の忠勇義烈の特殊思想は勿論、支那文化も、印度宗教も、日本化して、否、日本に依ってその生命力の発展と完成を見たのは、余りにも顕著である。
        この故に、今日も、これからも、躍進日本の動向の主因は、三千年間に培われた日本文化によるのであって、やがてその華が咲き実がなるのである。
        いわゆる文化形態が日本的に芽生えようとする今、人間の生命を把握している、絶対者ともいうべき医術そのものが革命され、新生してもよい訳である。
        しかしそれは、ただそれだけの理由でもない。
        それよりも西洋医学の余りにも無力であるという理由も勿論である。
        今にも難症が解決出来るかのようにいい、今にも生命の神秘が白日に晒し出さるるかの様に新発見を発表する。
        又、新薬や新治療が、救世主のように、次々現われかけては、亡霊のように消えてゆく。
        人々はそれらの科学的美辞に幻惑されて、自分達の生命は今にも科学力で解決される様に思ったりする。
        現代人の眼は、大方は近視眼になっている。
        それは、目前の物しか視る事が出来ない症状だ。
        だから近視眼では、科学のイミテーションは解るはずがない。
        視よ、弱体児童の激増や嬰児の死亡率と、眼鏡使用者が世界一だという。
        それで医学は進歩したというのである。
        結核患者も、脳溢血も、神経衰弱も、絶望的数字にまで進んでいて、それで、医学は進歩したというのである。
        精神病院は現在患者の十分の一しか収容出来ないそうだ。
        新聞紙の広告欄は薬の能書で一杯である。
        新興宗教は治病だけで信者を獲得している。
        それで医学は進歩したというのである。
        医学博士で灸治療をする者が段々殖えるそうだ。
        又、掌療法専門の博士も有るという事だ。
        それで、医学は進歩したというのである。
        皮下に在る膿一滴といえども、メスか針で皮膚に傷を付けなければ、除去出来ない現代医術である。
        そのような医術で、人間の生命を解決しようとするのは、ロケットで月世界へ往くより困難であろう。
        又、薬剤で病気を治そうとするのは、ロボットに恋愛をさせようとするのと等しいものかもしれない。
        何となれば、薬剤は苦痛の緩和は出来るが、病気治癒力は、絶対有り得ないからである。
        科学的医療と、インチキ宗教に、生命を託さなければならない時代の人間程、不幸な者は有るまい。
        この時代こそ実に病者氾濫時代である。
        にも係わらず、医学は進歩したと思込んで、医療に満足し切って何ら疑点を挿(さしはさ)まない盲目さである。
        まことに悲惨そのものである。
        吾々は、この様な現代医学に生命を委(ゆだ)ねて安心出来るであろうか。
        勿論、科学の恩恵は素晴しい、最大級の感謝を捧ぐるも足りない事は識っているが、人間の生命だけは科学の範囲外に置くべきものである。
        新生さるべき日本文化とは、科学のみでない。
        精神と科学、霊肉両全の、否、霊が主たるものでなくてはならない。
        勿論、医術も殊に霊が主であるべきだ。
        それは、生命力を復活させる力は霊が基本であるからだ。
        無論、宗教的や観念的でもない。
        実に科学的でも、宗教的でも全然ない。新しさと完成が在るべきである。
        そういう完全医術が、日本に新成されてそれが世界へ拡充されて、白人も、東洋人も、黒人もが、均しく恩恵を蒙るという、その時期が来た事を私は信ずるのである。
        そうして病無き時代は創造される。病種は漸減し、病院は次々閉鎖されてゆく。
        医師の数も、死亡率も、漸次減少するのは勿論である。
        この夢にも等しい医術が、日本文化の根幹をなすであろう。
        それは、西洋文化が、日本の長夜の夢を醒ました時も、医術がその先駆をなしたように、今や、新生日本文化は、赫々として、旭日のように、西へ西へと光を拡げてゆくであろう。」 (「新日本医術書」より)

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        「観音力療病術」

        2019.12.28 Saturday 08:15
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          「観音力療病術などと言うと、はなはだ迷信臭く響くので、その名称について種々苦心したのであるが、いささかの粉飾も無く、その実体を言表わすとすれば、そう言うより外は無いのである。
          ここで、今日までのあらゆる治病法を検討する必要がある。
          それはまず大別すれば、物質療法と精神療法とである。
          物質療法とは言うまでもなく洋漢両医術であり、その他それに類似の鍼灸、電気等である。
          精神療法としては、信仰を本意とする加持祈祷は固より、観念や信念に依る治病である。
          しかるに本療病術は、そのいずれにも属しないものである。
          しかし、近時行われている指圧や掌療法と酷似してはいるが、本質は全然異(ちが)うのである。
          この故に、本療法は未だ曾(かつ)て歴史にも経験にも絶対無かったものである。
          全く新しい医術であり、治る医術であり、明日の医術である。
          一名、岡田式指圧療法とも言うが、これは便宜上付したまでであって、適切ではないのであるから、本療病術が全般に知れ弥(わた)るまでの間、右の名称を用いるまでである。
           観音力などと言うにおいて、信仰的でないとは言えないが、別に観音を信仰しなくても治るのである。
          又、診断の場合、医学以上正確であるし、発熱は解熱させ、痛みは去らしめ、膿を除去し、下痢を止め、咳嗽を無くす等、あらゆる病苦を除去し得、又、病原についても実証的に、微に入り細に渉って説明なし得るので科学的でもある。
          この点、現代医学の方が非科学的である。何となれば、現代医学は、なる程、末梢的にはある程度の説明をなし得るが、根本的説明は不可能であるからである。
          又実際上病理という名称の下に、病理は説いていない。それは、病気現象の説明でしかないのである。
          故に、医学が病理と病原を説こうとすれば、今のところどうしても非科学的になってしまう。
          本療病術は、あらゆる病理病原を、徹底的に実証的に、科学的に(機械的ではない)説明なし得るのである。
          随って、科学的とも言い得るが、無薬、無器であるから、非科学的でもある。
          これにおいて、本療病術は信仰的であって、信仰的でなく、科学的でもあるが、科学的でもないという、一種の不可説、無碍(むげ)療法である。
          古来、観音信仰によって、奇蹟的治病を受けた実例は頗(すこぶ)る多く、あらゆる信仰中、断然一頭地を抜いている事は人の知るところである。
          しかし、この事実を観念による一種の精神治病と片付けてしまうある一部の科学者には、受入れ難いであろうから、それらの人へ対しては、やがて目覚める時期を待つ事として、今一歩進めて説いてみよう。
          観世音菩薩の御救は、誰もが知るごとく、今日までは、木仏、金仏、絵画等の偶像を介して施与せられた事である。
          しかるに、現在誤まれる医療や迷信等によって、病者衢(ちまた)に溢れつつある火宅のごとき娑婆世界に対しては、偶像を介しての救は、最早病者の氾濫と、それによる人間の困苦を喰止める事は、不可能である。
          これにおいてか、どうしても生きた人間を機関としての、治病的一大救済を行わなければならなくなったのである。
          それが不肖仁斎創始の観音力療病術となって現われたまでである。」 (「新日本医術書」より)

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          「岡田式指圧療法の原理」

          2019.12.27 Friday 08:50
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            「岡田式指圧療法は、実は指圧療法というのは当らないのであって、浄血療法、又は浄気療法、浄化療法とでも言うのが、適合しているのであるが、指圧療法の名の方が、一般に肯き易いので付したまでである。
            そもそも、この根本原理は、病気の根元である人間霊体の曇そのものを、霊光の放射に依って、消失浄化せしむるのである。
            霊体の曇が払拭さるれば、その部の血液は浄化せられ、その部の血液が浄化さるれば、その部の膿汁は解溶され、膿汁が解溶さるれば、病気は全治するのである。
            故にこの療法は、霊から治癒するのであるから、根本的治療法である。
            しかるに西洋医学は、これと反対の療法である。
            即ち、病気として表われたところの体的現象を、薬剤、機械、光線等の物質を応用して、治療するのであるから、たまたま、治癒されたごとき状態を呈するといえども、ある時期を過ぐれば、弾圧された力へ対する反動的状態を以て、再発する訳である。
            この故に、肉体に向っての薬剤又は、物理療法は、仮に奏効するとも、多くは一時的治癒であって、根本的治癒ではないのである。
            しかしある場合には、一時的治癒の後に自然治癒によって、全治する事もあるが、これらはある一部の病患である。
            故に、この理によって唯物的西洋医学は、霊を認識せざる限り、いかに進歩せしめようとするも、治病不可能である事は断言し得るのである。
            観音力療法における根本医力である霊光とはいかなるものであるか。
            これは試験管的には、未だ説明出来ないものである。
            何となれば、未だ科学の方がそこまで進歩していないからである。
            世の科学者又は、医学研究家諸賢は一日も速く、この霊光の本体を科学的に分析研究されん事を熱望して、やまないものである。
            しかして、この偉大なる霊光は、人類史上未だ顕現された事のない、一種の神秘的光波である。
            強いて説明をすれば、彼のラジュウムの幾十倍、幾百倍の治病力ある光線である、というより外は無い事である。
            しからばこの神秘光線は、どこに存在するやと言えば、それは太陽の光波と月の光波とが、あるX体に向って不断に流射されつつ、あるX体内において密合し、一種のエーテルが構成され、そのエーテルが又不断に、仁斎(註 明主様のこと)の体内に向かって流射しているのである。
            故に、仁斎の四肢五体からは、その光波が常に放射しつつあるのである。
            この神秘極まる一切の工作者こそ、観世音菩薩の御本体である。
            故に解り易く言えば、観世音菩薩は、治病力たるエーテル光波を、無限に製出供給し給いつつ、仁斎の肉体を通じて、治病救済を行い給うのである。
            故に、仁斎に接近するや、多くの人はその光波に浴して、病気によっては治癒されたり、痛みは癒え、又は爽快な霊気感に触れて悲観は消え、勇気は増し、再三接近するにおいて、血液の浄化によって血色を増し、飲酒家などは飲酒癖が無くなるのである。
            これらによって見ても、科学的に説明は今の所、不可能ではあるが、実証的にはなお、いか程にも説明し、理解出来得らるるのである。
            なお仁斎が、文字又は絵を書けば、その筆を通じて、墨色へ光が参透するのであるから、書体又は画面から、一種の光を放射するのである。
            その色は白金色、黄金色、紫色等であって、その光を見た者は今日まで幾十人にも上っている。
            ある時は停電の際のごとき暗黒であるべき画面が、その画面から放射する光に因って、鮮かに観世音の御姿を拝した例もあり、又電気を消して画面から放射する光が、部屋一杯に混ったという例も幾度となくあるのである。
            又、治病力を発揮させる意味の文字を認めたる紙片を折り畳み、普通人が懐中すれば、その人は直ちに治病力を発揮し、医学博士以上の治病実績を挙げ得る事の実例は、日々枚挙に遑(いとま)ない程である。
            この不可思議なる力を称して観音力というのである。
            故にこれらによってみるも、病無き時代人類が天寿を全うし得る時代の接近は、確言してはばからないのである。
            それと共に西洋医学の革命期の来た事も、疑ないのである。
            この観音力療病法こそ、実に明日の医学であり、真に人類救済の一大福音であるのである。」 (「新日本医術書」より)

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            「新日本医術書 序論」

            2019.12.26 Thursday 09:04
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              「そもそも、医術とは何ぞやと言えば、人間のあらゆる疾患を治癒し、完全なる健康体たらしむるのが、真目的である事は、今更言を俟(ま)たないところである。
              故に、真の医術が完成さるるに従い、人間の罹病率は年と共に減るべきであり、又、病気の種類も漸減し、その当然の結果として、人間各自の天寿、即ち天より享(う)けたる齢だけの年数を重ねて、苦痛のない眠るがごとき自然死の人が増加してゆかなければならないはずである。
              しかるに、現在までの事実はいかん。右と余りに反対の経路を辿(たど)りつつあるではないか。
              視よ、罹病率は日に月に増すのみであって、一人も病者の無い家はほとんど稀である。
              今日、国民の健康を厳診するにおいて、真の無病者は、果して幾人あるであろうか。
              恐らく十人に一人も難しいであろう。
              壮丁(そうてい)の体格が年々低下するという報告や、乳児死亡率が、有難くもない世界第一の統計を示すごとき、又、結核患者の撲滅に官民共に大童(おおわらわ)の努力を払い、多額の国費を使いつつあるに拘わらず、更に減少せざるのみか、今なお、一ケ年百二十万人の患者と、十余万人の死亡者を出しているという状勢である。
              又、病気の種類に見ても、増加するとも減少しない事実は、何を物語っているであろうか。
              今日男子にして、高等教育を受け、有為の才を抱きながら、病床に呻吟しつつある者、又は修業の半途において、病患の為に挫折し、可惜(あたら)青春の身を以て、煩悶の日を送りつつある者、又は相当の地位や、成功を収めて、大いに国家社会に尽さんとする頃、病に斃(たお)るる者、又、婦女子にして、病弱の為に妻としての、母としての天賦の務を完うし得ざる者、婚期を過す者、愛児の早世による悲嘆、その他障害者、変質、発狂等、これらが原因となって、不幸逆境に沈淪(ちんりん)する者のいかに多きかは、誰もが余りに知り過ぎている事実である。
              今仮に、一家に一人の重患者を出すとすれば、長年汗した貯蓄は、たちまち費消されるべく、況(いわ)んや二、三人の重患者、又は死亡者の生ずるにおいては、相当の資産をさえ、蕩尽されてしまうという悲惨事は、到(いたる)ところに見るのである。
              今日、社会の敗残者、無産者のその原因の病気に困る事のいかに多いかは、周知の事実である。
              故に、世人の病気を恐るる事、今日よりはなはだしきは無く、その弱点に付け込まれ、効果疑問の売薬や滋養剤を、巧妙なる広告戦術に魅せられて、多くの病者の財嚢(さいふ)は相当搾(しぼ)られ、窮乏線に拍車を掛けられている状態である。
              そうして、一度重患に罹るや、驚くべき高価なる手術料や、多額の入院料を負担させられるに拘わらず、その治癒するの遅々たる、治病率の低き、実に当事者の言に徴するも、五十パーセントも難しいとの事である。
              慶大の草間博士は、公開の席上において、明言していわく、「現代医学では、病気は決して治らないのであるから、今後は病気に罹らない医学、即ち予防医学に依って各自の健康を保つより外に、最善の方法は無いのである」と。
              実に正直にして良心のある、真の学者の言であると思うのである。
              故に、賢明なる医師は、西洋医学での治病の無力を痛感して、止むなく漢方医術、灸治、その他の民間療法に着目し研究せんとする者、簇出(そうしゅつ)しつつあるの実状である。
              以上説く所の事実によって見るも、現代医学の真価は明かである。
              なる程、黴菌発見や、基礎医学方面にては、多少の進歩の跡は見るけれども、治療方面においては、実に十年一日のごとしと言いたい位である。
              しからば、この真因はどちらに在るであろうか。その発見こそは、まことにいかなる政治よりも、経済よりも、発明よりも、緊要事であろう事である。
              言うまでもなく、国民の不健康程、国家の損失はあるまい。
              今や、躍進日本の地位より観て、今後益々欧米人に伍して相競うは固より、望むらくは、白人種を凌駕するまでにならなければならないところの、重大使命を持つ日本人として、実に健康こそ何よりも最大根本問題であらねばならない事である。
              しからば、現代医学の誤謬は、いかなる点に存するのであろうか。
              それは実に、その出発点において、重大なる錯誤がある事である。
              それが、この書中に詳述してあるから、熟読玩味するにおいて、何人といえども豁然(かつぜん)としてその蒙が啓け、病気の真因も、健康の要諦も、天日の下に晒さるるがごとくで、無医薬療病に依って、病患は根絶さるる事を、覚り得るのである。
              実にこの新日本医術であり、明日の医学とも言うべき観音力療病と健康法の真髄こそは、人類の歴史有(はじま)って以来恐らく空前であろう程の、一大福音である。
              又、私が余りに狂人にも等しい、大言壮語する事に対して、反って疑を持つ人がないとも限らない事であるが、それは、たとえばいかに食物の美味を説明しても、口へ入れなければ判らないのと同じである。
              とにかく、実験と体験である。私は全責任を以て、私の言の一点偽りの無い事を誓うものである。」 (「新日本医術書」より)

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              「付録 政府は西洋医学と民間療法との比較実験を行って可なり」

              2019.12.25 Wednesday 09:11
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                「近時西洋医学の治病能力が、余りにも薄弱であるが故に、患者は止むを得ず、他の種々の療法を求めんと焦慮する事は、真に無理からぬのである。
                ある者は灸治に、指圧に、ある者は類似宗教に何々療法に趨(はし)るのであるが、それは実に、西洋医学よりも、何々療法の方が治癒する場合が、相当あるからである。
                何となれば、それらに趨ろうと心を動かす訳はほとんどが、その療法又は、その宗教によって治癒された体験者の、勧めに因るからである。
                そうしてそれらへ赴く患者は、散々、あらゆる医療を尽した者のみであるに関わらず、その拗(こじ)れた病気が、往々治癒されるからである。
                この事実は、医療よりも、それら療法の方に、治病能力が、多分にあるという実証になるので、これは、いかんともし難い事であろう。
                しかるにも係わらず、社会一般人は、類似宗教の治病は、インチキと言い、民間療法は、危険と言うのである。
                今日の療病に対する法規は、西洋医学を唯一のものとして造られたる、明治時代のものである。
                その頃は、西洋崇拝の極、無差別的に西洋文化を採り入れたのであるから、致し方はないが、最早、今日の時代に適合しないのは当然であろう。
                西洋医学を採り入れてから今日に到るまでの、長年月の実験の成果は、どうであるであろうか。
                なる程、黴菌による予防医学には、多少の貢献はあったと言え、全般としての治病医学においては実績の上らない事、真に情ない事実である。
                それら、実際に盲目である一般世人、殊にインテリ級の人々は、西洋医学を、絶対無二のものと思い込んでしまって、西洋医学以上に、治るべきものは、他にあるべきはずがないと決めてしまっている事である。
                実に、科学に対しての、恐ろしい我執は、故意に眼見を狭くして、幸福を抛棄するようなものである。
                西洋医学以上に、治病能力の優れたものの発生に、眼を蔽(おお)うているのである。
                西洋医学でさえ治らない病が、無数に治ってゆく療法の発生を知らない否信じられないからの事であろう。
                しかし医家は言うのである。なる程、民間療法も、相当治る事は認めるが、術者が、科学的病理の知識が乏しいから危険であると、主張するのである。
                しかるに、吾々から見る時、西洋医学は、実際を無視して、学理に拘泥し過ぎる為、治るべき病患も、不結果に終る事実を、余りにも多く見せ付けられている関係上、頗る危険と思うのである。
                しかして当局は、民間療法の取締に、腐心しているという事である。
                勿論、取締も必要ではあろうが、真に治病能力の確実なるものはこれを助長するこそ、社会政策上、極めて必要な事ではなかろうか。
                時代は、進歩して止まないものであるから数十年前に信じた、西洋医学のみに、今以て信頼を続けているという事は、優れたる療法の発生を、知らないが故であるから、一日も早く、民間のあらゆる治療法を、調査検討すると共に、幾多類似宗教の治病実績をも、あわせて調査する必要があるであろう。
                そうして、西洋医学、漢方医術、民間療法、信仰的治療等、厳正なる方針と、親切なる手段とを以て比較検討すべきである。
                そうして、真に効果ある療法を、発見し得たならば、それを援助すると共に、急速に社会的に、発表実施すべきであろう。
                その結果として、西洋医学へ対しても又無効果なる療法も、インチキ分子のある宗教等も、公平なる、新しい規則を作って、取締る必要があるであろう。
                要するに今までよりも、より、自由広義な意味において国民保健と衛生に対しての新しい解釈と、施設を建つる事こそ、時代を解するものと言うべきである。(岡田仁斎)」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
                 

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                「結 論」

                2019.12.24 Tuesday 08:57
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                  「西洋医学の誤謬と、本療法の効果とは、大略述べた心算であるが、その帰結として、今少し、述べてみたいのである。
                  西洋医学における黴菌の研究及び、生理解剖、分析等は、確に、有用であるから、勿論、飽くまでも、科学的に進歩発達せしむべきものである。
                  ただ私が一大警告を、発せんとする目的は病患の真因と、そうして、治療の誤謬を指摘したい事である。
                  それによって、西洋医学が、真の治療を確立し、正しい歩みに入らねばならない事を、望む外、他意無い事である。
                  それは、言うまでもなく、治る医術と、天寿を全うし得る、健康法の完成である。
                  私が常に直接間接に耳にする事であるが、医家がいかに努力をしても、西洋医学では、完全に病気は治らないので、常に、懊悩を続けているという、告白である。
                  又、私の門弟の一人が、某医学博士の令嬢(二十歳)の、慢性腹膜炎を、九日間で治癒し、手首の鶏卵大の、七年間の癌を、四回で治癒したのであるが、それへ対して、父なる博士は、驚くかと思いの外、左のごとき、実に味うべき事を、言うたそうである。
                  それはこうである。
                  「別に驚くには当らない。人間の病気は、人間以上の、神の力なら、治るべきが本当である。
                  人間の病気を、同じ人間である医師が、治そうとしても、それは決して、治るものではない」との事である。
                  そうして、その博士は、家族の者には決して、病気へ対して、薬剤を使用しないそうである、それは効かない物を服んでも、無駄であると、言うのである。
                  又京都に居る、ある医博は、灸治療法を専門にしているとの事で、わざわざ、東京から行く患者もある。
                  その他、漢方や、民間療法を研究しつつある医家も、すくなくないという事を、よく聞くのである。
                  これらの傾向によって察(み)ても最早、西洋医学の、治療における、一大革命期が、来つつあるのである。
                  本療法についての、科学的説明は、今の所、困難である。
                  しかしながら、全然、説明し得ない事はないから、概略を述べてみよう。
                  それは、一種の、神秘光線の放射である。
                  ただ、その光線は、今日まで学問で知り得なかったものである。
                  そうして、この光線と、現在行われている、ラジュウムやレントゲン、太陽灯と異る所は、それらと比較出来ない程の、有力な、治病効果のある光線である事と、今一つは、人体を通さなければ応用出来ない、という点である。
                  しかして、この光線を放射する時、皮下にある膿は、解溶してゆくのである、又それによって、痛みは眼前に、除去されるのである。
                  そうして、いかなる深部といえども透過するから、手術でも、除去するのに困難である位置の膿も、外部からの治療によって、容易に勿論、些かの苦痛も無く、解消されてしまうのである。
                  恐らく、かかる、不思議なる療法は現代人としては、到底信じ得られない事は、能く判っている。
                  故に、その真相を知る方法としては、体験以外には、ない事である。
                  しからば、この神秘なる光線の本体は、何であるかを、説明したいのであるが、唯心主義者には信じ得られるが、唯物主義者には、信じ難いと思うのである。
                  何となれば「観世音菩薩が、病気根絶の本願から、流射され賜う光波で、人間を通す事によって、治病の効果が、挙げられるのである」こう言えば、現在の社会人は、観世音菩薩などという、その事だけで、迷信視し、インチキ視するという、懼(おそ)れがあるので、発表したくはないが、それを言わなければ、真相に触れる事が、出来得ない以上、止むを得ない事である。
                  私の冀(ねが)うのは、医家が、これを習得され、治療に応用されたい事である。
                  西洋医学の治療よりも、その効果において、何十倍であるか、量り知れない成績を挙げる事は、断じてあやまりがないのである。
                  又、なお進んで、医科大学において、応用、研究されなければならないと、思うのである。
                  それに関してのすべては、出来得る限り、喜んで、実験に応ずる事を、誓うものである。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)

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                  「医学に欺されてる医師」.2

                  2019.12.23 Monday 09:02
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                    又今一つは、ある病気を全治さした結果、それは重に手術であるが、例えば、扁桃腺を除去するとする。
                    なる程、扁桃腺炎は起らないが、それに更(かわ)るに、他の、疾患、淋巴腺、耳下腺、中耳炎、肺尖加答児(カタル)等に罹り易いという事実、又、盲腸炎の手術の結果は、腎臓病や腹膜炎を起し易く、卵巣除去の結果は、子宮癌、腎臓病を起し易いという例も、知らないはずは無いと思うのである。
                    かくのごとく、本来の病気よりも、手術後に起り易い疾患の方が、より悪性であるという事は、大いに考えなくてはならない事である。
                    しかし、医家はいうであろう。
                    手術をしなければ、生命に係わる以上、一時なりとも、その生命を延長し得る効果があるから、よいではないかと、なる程、それも一理はある。
                    がしかし、それでは、本当の医術ではない。
                    ちょうど、借金の借換えと同一であって一時的の苦痛は免れるが、借金の返済ではないから、いずれはその苦痛が増加するという結果になる事である。
                    故に、これらは、真の医術ではないのである。
                    しからば、真の医術とは、いかなるものであるか、参考の為、左に条件を示してみよう。
                    一、治療の場合、メス又は針等によって、絶対に苦痛を与えない事
                    一、手術の傷痕、又は、灸の焼痕のごとき、醜い痕跡を止めざる事
                    一、全治後は、再発をなさざる事
                    一、治療中、余病の発せざる事
                    一、あらゆる疾患に対し、明確に、全治とその概略の日数を、断言為し得る事
                    一、薬剤は、必ず、中毒を伴うものであるから、用いざるを原則とす
                    一、重症といえども、多額の費用と、多数の時日を要せざる事
                    右の条件の一つにても、西洋医学は可能でありや、恐らく一つも、及第するものは無いであろう。
                    二千有余年以前、希臘(ギリシャ)時代から、幾千幾万の学者、専門家が、研究努力しつつあるにも係わらず、右の一つだも、未だ不可能というに到っては、驚かざるを得ないのである。
                    これによって見るも、たとえ、向後、何百年、何千年経るとも、まず西洋医学では、病気根絶は、到底見込のない事を、誰しも想像なし得るであろう。
                    随って、西洋医学を、絶対無二のものとして、信奉しつつある人は、実は、欺されていると、言ってもよい訳である。
                    故に、私は言う。医家には、罪が無いのであって、医学そのものに罪があると思うのである。
                    一言にして言えば医家は、医学に、欺されているのである。
                    とも言えると思うのである。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
                     

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                    「医学に欺されてる医師」.1

                    2019.12.22 Sunday 08:48
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                      「西洋医学に依る、治病能力の疑問は再三述べたところであるが、
                      多くの医師諸君の中には、これをハッキリ、認識出来得ない人もあろう。
                      それは、薬剤や物理療法に依っての、苦痛の軽減を、治癒されると思う誤認である。
                      病気軽快と治癒とは、全然異う事も、述べてある通りである。
                      故に、病気治癒に当って、その余りにも治らない事に、煩悶しない医家は無いであろう。
                      ただしかし、これ以上に治療法が無いものと、決定的に信じてしまっているので、どうしようもないのである。
                      医家が、病患を治癒せんとして、あらゆる療法を試みる、その事が却て、病気を悪化させる作用であるという真理に、気が付かないのである。
                      その例として、医家が、ある病患を治癒せんとして、種々の療法を応用し、焦れば焦る程、病症は却て、悪化するであろう。
                      反対に、それ程の努力を払わない病人の方が、能く治癒せられるという皮肉も多くの医家は、経験されているはずである。
                      又、何かの事情によって、医療を止めてから、軽快治癒したという例も、数多く聞くのである。
                      彼の医家自身の病気や、自己の子女の病気に際し、特に、他の医師に治療を求める事もよく聞くが、これも実に不思議である。
                      医家が、いかに医術を危うんでいるかが想像されるのである。
                      これによって見れば、この場合医術は万一を僥倖(ぎょうこう)する賭博のごときものとも言える。
                      今一つの緊要なる点は、一時的、外面的治癒と、永久的、根本的治癒とは、その本質において、格段の相違がある事である。
                      前者は、再発の憂があり、後者は、その憂が無い事である。
                      故に、医家が作成する全治報告、及び治病率統計は、この点まことに不正確である。
                      予後の短期間の成績を、基準としている事が、多いようである。
                      又、これと同じく、軽快と全治とは、全く異う事である。
                      薬剤や物理によって、治療する場合、ある程度の軽快を見るが、それは治癒ではなくて、病気攻遏(こうあつ)の結果である。
                      故にこの場合の軽快は、一定時を経れば、猛然として、反動的悪化の作用を起す患(うれい)がある。
                      これは医家も、しばしば経験されるところであろう。
                       

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