「病気を悪化させる医療」

2020.01.18 Saturday 08:41
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    「現代医療は、病気治癒でなくて病気遅延であり、病勢を悪化さすのであるという事は前述の通りである。
    その点について、今一層徹底的に説いてみよう。
    人がまず病気に罹るとする。そこで、医者にかかる。
    この場合医療は発熱に対しては解熱療法をし、咳嗽は止めようとし、腫物は散らそうとし、痛みには薬剤を塗布し、患部へは湿布又は氷冷法等を行うのである。
    これらはいずれも苦痛緩和の方法ではあるが、実は病気治癒の妨害である。
    浄化作用であるべき病気現象を軽減せんとするのは、取不直(とりもなおさず)治癒の妨害をする訳である。
    それ所ではない。もう一層大いなる誤りがある。
    それは、病気に対する抵抗力を強めようとして、滋養物と唱え、獣性食餌を摂らせようとするが、これは血液を溷濁(こんだく)させるので、即ち毒血増加法である。
    毒血は殺菌力弱く抗病力が薄弱であるから、結果としては病気を悪化させる事になるのである。
    又、薬剤の注射及服用は、これまた非常に血液を溷濁させるのである。
    特に、注射においてはいかなる注射といえども、血液に入る時、血液から言えば、不純物の侵入であるから、不純物侵入に遇った血液は、その血液本来の使命である浄化力が弱まるのは当然である。
    浄化力が弱まる結果、病気現象が一時引込むので、宛(さなが)ら治癒されるように見えるのである。
    これは後段、毒素療法の項に詳説してあるから、ここでは略する事とするが、ともあれ、前述のごとく、獣肉営養及び薬剤による血液溷濁が病気悪化に拍車をかけるのであるから、今日一朝罹病するや、その治癒の遅々たる事、余病の発生する等、悉(ことごとく)この理によるのである。
    実に恐るべきは誤れる医術と、それに因る無智な療法である。」 (「新日本医術書」より)

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    「注 射」.2

    2020.01.17 Friday 18:43
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      しかるに、この毒素は全く医家の言うがごとく、白米中毒である。
      白米中毒の原因は、糠を絶無ならしめたのが原因であるから、糠を服用すれば、最も簡単にして費用を要せず、全治するのであるから、何を好んで薬剤や注射のごとき、苦痛と手数と費用を要するの必要ありやである。
      しかし我療法によれば、普通は二、三回重症にても十回以内にて全癒するのである。
      これについて大いに注意すべき事柄がある。
      それは、多くの医家は、白米中毒の脚気と、腎臓萎縮の為の尿毒によっての類似脚気とを混同しているという、診断の不正確が多い事である。
      これは全然別箇の病症であって、この差別の不知な為に、恐るべき結果をさえ来す例が屡々(しばしば)あるのである。
      その一例として左記のごとき患者があった。
      某高貴な婦人、年齢四拾歳位、二、三年間歩行不能、しかし匍匐(ほふく)して入浴をなし、坐して食事を摂り得る位の事は出来得たが、たまたま、日本有数の大病院の主任博士の診療を受けたるに、脚気との診断にて、六十回の注射をすれば全治するといい、注射四十回に及ぶ頃、全く起居不能に陥り、寝返りさえ打てず、ほとんど寝床に、膠着(こうちゃく)せるごとくになってしまったので、患者は驚いて注射の継続を拒否したのである。
      そうしてその状態は、更に恢復せず、その時より約一ケ年位経た頃、私は聘(へい)されてその状態を見、経過を聞いて驚いたのであった。
      これは尿毒性類似脚気を、白米中毒の脚気と誤診したが為であった。
      右の起居不能は注射の中毒に因る事は、一点疑えないところである。
      故に、この患者を治癒するには、その注射薬剤を除去するより方法は無いが、短期間には奏効不可能であるので、どうしても、肉体の新陳代謝による自然消滅を待つより外は無いので、その旨を患者に詳言して、一時手を引いたのである。
      かくのごときは、実に同情すべき不幸であると共に、医学の不明か、診断の不正確か、いずれかであろうが、注射療法のいかに恐るべきかを痛感したのである。
      小児百日咳に対し、よく注射療法をするが、これらも非常な誤りである。
      何となれば、元来百日咳の病原は、人間は生れながらにして、一種の毒素を持っている。
      その毒素を排除しなければ、発育と健康へ対して、障礙(しょうがい)となるから、その毒素を排除する工作、それが百日咳なのである。
      従って、その毒素排除に要する日数が百日掛るという訳である。
      これは、咳嗽と共に白色の泡のごとき液体を排除する。
      それが毒素である。
      これが多量の時は、嘔吐によって排泄するのである。
      故に、咳嗽そのものによって、毒素を排除するのであるから、この場合咳嗽こそは、最も必要であるにも不拘(かかわらず)、医家はこの咳嗽を軽減させようと努力する。
      故にもし咳嗽が軽減さるればされただけは、毒素排除量が減少されるから、治癒は遅延するのである。
      自然に放置すれば、およそ百日で治癒すべきに、医療を受くる結果、非常に長時日を要し、半ケ年にも一ケ年にも及ぶ者さえあるのは、全くこれが為である。
      又、この誤療の為予後何ケ月も、時によっては何年もの慢性咳嗽患者、又は肺患者になる事実さえ往々見るのである。
      これによってみるも、医学の未完成による注射の弊害こそは、実に恐るべきものである。
      小児疫痢の注射に対しても、私は賛成出来ないのである。
      なぜなれば、注射によって生命を取止むるよりも、生命を失った方の実例が、余りに多い事を知っているからである。
      生後数ケ月の嬰児に対し数十本の注射をして、死に到らしめた例は、度々見るのである。
      その他、ジフテリヤ、肺炎、丹毒(たんどく)、瘍疔(ようちょう)等の注射も、好結果の実例はあまり聞かないのである。
      ただ、痔疾と梅毒の注射は、ある程度の効果は認め得るのであるが、その効果といえども、我療法に比すれば何分の一にも及ばないという事を言い得るのである。
      その他未だ各種の注射療法があるであろうが、大体大同小異であるから、右によって想像されたいのである。
      これを要するに、注射の功罪は、一時的は効果あれども、最後は反って病勢を悪化する懼(おそ)れあるのが実際であるから、根本的治療から言えば、注射を行わない方が良いのである。」 (「新日本医術書」より)

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      「注 射」.1

      2020.01.16 Thursday 08:46
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        「注射は、最近頗(すこぶ)るその種類が増加して来ている。
        それらを私の知り得る範囲において述べる事とする。
        苦痛軽減の目的による注射、例えば胃痙攣、腸痙攣のごときは、
        一時的痛苦は確かに消滅するのであるが、それは痛苦の原因たる疾患を治癒するに非ずして、痛苦を感受するところの神経を、薬剤によって一時的麻痺さすので、その麻痺状態中に、本尊たる疾患は、自然治癒をされるのである。
        故に、病根を祓除(ふつじょ)するのでないから、一旦治癒の状態を呈するも、一定時を過ぐれば再発するのは勿論の事である。
        次に喘息の注射は、注射するや咳嗽、喘音は速かに停止して、健康時と異る所無きまでに、全く治癒されたかと思う程であるが、半日ないし二、三日位経るや、再び発作状態となるのである。
        薬剤効果の特性として、三日より二日、二日より一日という具合に、漸次、効果時が短縮され、ついに全く、薬剤中毒患者になってしまうのであって、本来の喘息は、依然として存続するのみか、反って多少ずつ、悪化に向うものである。
        何となれば、喘息の病原は、横隔膜の下部に水膿溜結し、その自然排除現象としての喘音、咳嗽であるから、注射によって咳嗽を留むるにおいて、その期間だけは、水膿排除作用が停止する事によって、それだけ病気は悪化する道理である。
        又、衰弱を恢復し、体力を旺盛ならしむる為、カルシュウム注射を行うのであるが、これは確かに一時は食欲を進め、体重を増し、ほとんど健康増進せるごとくに見ゆるも、それは全く人為作用であるから、一時的であって、注射を止めると共に、再び衰弱時に還元するのみか、反って反動作用の加わるが為に、より衰弱の度を増すのが実際である。
        加之(しかのみならず)、この薬剤は、およそ一年以上四、五年を経れば、蕁麻疹のごとき、頗る掻痒(そうよう)を感じる発疹が、全身又は部分的に発生するのである。
        これは全くカルシュウム中毒であるに係らず、医科大学を始め、医学の大家といえども、これに気が付かないと言うのは、実に不可思議というべきである。
        この症状に対し、塗布薬、注射、服薬、食餌療法等を応用すれども、その病原と齟齬するが故に、更に効果なく、患者は二ケ月三ケ月、半年一年に及び、医師病院を転々して、多額の治療費を使用し、なお治癒されないという。
        まことに気の毒な患者をすくなからず見受くるのである。
        私が治癒した三十歳位の婦人で、このカルシュウム中毒の発疹が顔面に出で、四、五年もに及んで、あらゆる方法によるも治癒しないので、若き婦人としては、外出も滅多に出来ず煩悶を続けていたという。
        実に同情すべき事であった。
        この患者は三回の施術によって全治し、今も非常に感謝している。
        中風又は、神経痛のごとき疾患にする注射は、その効果は全く今の所疑問である。
        それらの疾患は、注射によって全治せるものを、私は未だ見た事がない。
        反って、注射に困る薬剤中毒の為、本来の病気以外、追加されたる負担による痛苦の増加を来した気の毒な患者は、無数に見るのである。
        これら注射中毒患者は、注射の回数の多い程、痛苦が激しく、治癒は困難なのである。
        故に私は、注射の有無と回数によって、治癒日数を予定するのである。
        無論、注射の多い程治療日数を要するのである。
        今までに取扱った患者の中、二ケ月半に七百本の注射を受けたのが、最多であったのである。
        又、脚気の注射であるが、これもそれに依て全治したという例を聞いた事が無い。
        そうして、理論上から言って、薬剤注射を以て治癒するはずは決して無いのである。
        何となれば、脚気の病原としては、一種の毒素が極浅い皮下一面に滞延するのであるから、この毒素を解消せしむるより外は無いのである。

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        「薬剤の害毒」

        2020.01.15 Wednesday 09:08
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          「人病(やまい)に罹るや、直ちに医師の門に駈け付け、治療を乞うのであるが、医師はまず投薬療法をする。
          この場合、服薬と注射、塗布薬等であるが、これが治療上における誤謬のそもそもの根本である。
          何となれば、再三述べたごとく、病気の根本は霊体に発生し、しかして後肉体に表われるのであるから、薬剤は肉体的には多少の効果ありとするも、霊体に向っては全然無力であるから、肉体へ顕出した現象を、外部から停止さすに過ぎないのである。
          しかして、霊体の曇が移行した結果である患部は、汚物停滞であり、それが自然浄化によって、体外に排泄さるるその行程が病気であるから、病気そのものの苦痛が病気治癒になるのである。
          故に、薬剤やその他の方法によって、病気現象を停止せんとする事、それが取不直(とりもなおさず)、自然治癒の妨害をする事になるのである。
          人間の血液は、絶対清浄を保つべきもので、血液清浄なれば決して病に侵されないのである。
          即ち、霊体の曇が血液の汚濁となり、その浄化作用が病気であるから、いかに霊体は清浄でなくてはならないかと言う事が判るのである。
          黴菌に対し、浄血は殺菌力が旺盛であるという事は、他面から言えば、人間の血液の掃除夫である黴菌が侵入するも、汚濁が無ければ、掃除の必要がないから、繁殖出来ないで、衰滅する訳である。
          故に、薬剤の作用は治癒を妨害すると共に、その余燼(よじん)は血液中に吸収されて、血液を汚濁させるのである。
          この事実は長年に渉る薬剤服用者の皮膚を見れば、瞭(あき)らかである。
          その皮膚は蒼白にして、光沢及び弾力なく、若くして老人のごとくである。
          これらの患者へ対し、薬剤使用を停止さするにおいて、時日の経過による自然浄化が、薬剤中毒を消滅さすから、生気を増し、皮膚は光沢を呈し、健康を快復するのであって、この事に専門家も患者も、今日まで気が付かなかったという事は、実に不思議である。
          次に、薬剤の逆作用の恐るべき事である。
          それは、薬剤使用の目的と反対の結果になる事である。
          例えば、胃の不消化へ対し、消化薬を用いると、一旦は、非常に良く、消化の効を顕わすので、これによって胃は健全を増し、不消化症は治癒するのであると、医師も患者も誤信するのであるが、何ぞ知らん、一時的効果の次は、反って不消化の度を増すのである。
          それは何の為かというに、胃は本来、食物消化の機能として存在するものであるから胃自体の労作によって消化さすのが本当であり、又、そう造化の神は造られたのである。
          しかるに何ぞや、それを薬剤の力を藉(か)りようとするのである。
          薬剤が食物を消化すれば、胃は労作の必要がないから、自然、胃の活動力は衰耗退化してゆくのは当然である。
          故に、胃薬服用を連続すればする程、胃は退化の度を増すから、益々不消化になり、その不消化を補うべく胃薬を用いる。
          それが又、不消化の度を増すという循環作用によって、遂に重症となるのである。
          私が実験上、食欲不振や不消化の患者に対し、胃薬服用を廃止さすにおいて、その病的症状は漸次消失し、患者はその意外に驚くのである。
          又、それ以外に重大な事がある。それは消化薬は食物を柔軟にし、溶解するのであるが、食物だけならよいが、胃壁に対しても同様の作用をするので、これが最も怖るべき事なのである。
          即ち、消化薬連続服用によって、ある程度柔軟化した胃壁は、僅かの固形物が触れても亀裂するので、その亀裂によって血液が浸潤し、それが吐血、血便、痛苦の原因となるので、これが即ち胃潰瘍である。
          故に、胃潰瘍とは、胃薬の連続服用が原因であるに係わらず、胃潰瘍を薬剤によって治癒せんとする、西洋医学の誤謬は、実に恐るべきものである。
          次に、便秘もその他の疾患に対しても、右と同一の理であるから略する事とするが、要するに、薬剤の逆作用のいかに恐るべきかを知らなければならないのである。
          特に生後間もなき嬰児のごときは、薬剤の注射や服用によって、発育遅滞又は発育停止の症状さえ起すのである。
          それは薬剤使用は、一種の不純物を注入する訳であるからである。
          この事は最近、一部の医家は発見し、嬰児に限り薬剤を使用せず食餌療法のみを応用するという報告に接し、大いに喜ばしく思っている。」 (「新日本医術書」より)

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          「酸素吸入の誤謬」

          2020.01.14 Tuesday 08:47
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            「重態の病人に対し、酸素吸入を応用する事が流行しているが、これが非常な誤りであって、反って病気には良くないのである。
            何となれば、人間が二六時中、呼吸して生きている天与の空気は、酸素や窒素、水素等完全に調和密合されたる完全無欠なものである。
            従って、特に酸素ばかり吸収するという事は、常識から考えても、その誤謬である事が、まことに瞭(あき)らかである。
            もし、健康体の人間が酸素吸入をしたなら、僅かに健康に異常を来すであろう。
            況んや、病人においておやである。
            これについて、最近、非常に面白い発見があった。
            それは風邪を治療するのに、飛行機に乗ると好結果があるというのである。
            最近、倫敦(ロンドン)の医師、ピーボールトン博士とエフェーノット博士によって称えられている。
            それは、一万フィートの高空を、約三十分間飛行すると、初期の風邪なら忽ち治ってしまうという事である。
            その説明としては、酸素が稀薄なので、身体組織は酸素を得ようとして、活動を開始するからであると言うのである。
            故に、この理から推せば、酸素吸入は、反って反対である事を識るのである。
            であるから、酸素吸入は、反って害があるという学説が、いずれは唱導されないとも限らない。
            その結果ついに自然空気を吸うのが一番良いという事になるのは、火を睹(み)るよりも瞭らかである。」 (「新日本医術書」より)

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            「痛みと熱」

            2020.01.13 Monday 09:17
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              「痛みは何の為であるか、これも医学では不明である。
              それは私がいつも言うがごとく、病気排除の自己工作が、神経を刺戟するのであるから、これを放置しておけば、案外速く治癒するのである。
              しかるに、この理を知らないから、氷冷、塗布薬、注射、湿布等を行うのであるが、これらは悉(ことごと)く治癒の妨害である。
              なる程多少とも痛みは緩和するが、非常に治癒が延びるのであって、時には予想外の不利を醸し、生命の危険にまで及ぶという実例さえあるのである。
              且つ痛みのはなはだしければはなはだしい程治癒工作が猛烈に進行しているのであるから、激痛は長時間は滅多に無いのである。
              しかし、我療法によれば、すべての痛みの解消は、驚くほど迅速であると共に、対症的でなく、根本療法であるから、痛みの解消は病気全治となるのである。
              熱の原因については、医学上今以て不明であり、各学者の説も区々(まちまち)として、一定しないようである。
              しからば、発熱とはいかなるものであるかと言うと、これは自然治癒の工作上、実に重大なる役目をしているものである。
              それは心臓が、霊界から火素、即ち太陽熱を吸収して、病気を解消すべく、必要量だけを供給するのである。
              発熱の際、鼓動の昂(たか)く多数なるは、その活動の旺盛期を示しているのである。
              又、発熱前の悪寒は、心臓が患部への熱量供給を専らとする為、その間全体的熱量供給が減殺さるるからである。
              たとえば、戦争の為に軍隊を、ある一局部に集注させる場合、全体としての兵員配置は、一時閑却さるるようなものである。
              よく人はいう。
              病気の際、発するところの熱は、健康時はどこに潜んでいるのであろうか、それらしい熱の貯蔵所は、どこにも見当らないと。
              これはもっともな話である。
              しかしそれは、前記の理由が不明であったからである。
              心臓は熱の仲介機能であって、熱そのものは無尽蔵に霊界に充ちているのであるから、何百日といえども治病に必要な発熱は継続する訳である。
              病気治癒に当って、熱は最も偉大なる功績者である。
              それは、あらゆる膿汁の溜結や喀痰の凝結を解溶し、殺菌等をするからである。
              故に、熱を醒すごとき療法は、折角の自然治癒を、全く妨害する事となるのである。
              しかし、医家はいうであろう。
              本来の病気は熱によって治癒するであろうが、高熱の為に他の障害、例えば、脳を犯す等の事があっては、生命に係わるとの心配である。
              しかし、私が、幾多の実験上、決してその憂は無い事を知ったのである。
              故に、風邪のごときも発熱をそのまま放置しておけば、至極順調に、速かに、治癒さるるのである。
              よく世間風邪を拗(こじ)らすというのはこの理を知らないから、肝腎な発熱を醒す為なのである。
              又、肺結核の経過不良と、治癒に時日を要するのは、全く解熱剤服用の誤が、大なる原因をなしている。
              又、発熱は衰弱を増すという事を懸念するが、これも実は的外れであって、なる程、衰弱を増すのは事実であるが、解熱による病状悪化の為の衰弱の方が、より大なるものがある事を知らなければならないのである。」 (「新日本医術書」より)

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              「新日本医術と既存医学の誤謬」

              2020.01.12 Sunday 09:06
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                「そもそも、病気とは何ぞやと言えば、人体の浄化作用である。
                人間の健康は、病気有るが為に保っている、と言ってもよいのである。
                人間が生を営みつつ諸々の行為による罪穢や、食物の毒素、その他近代生活における、種痘の為の陰性化天然痘毒素及薬剤中毒等、あらゆる可避不可避、又は意識と無意識とによって、知らず識らず堆積する毒素は、ある程度免るる事の出来ないものである。
                そうして、その堆積の量が、ある程度を超ゆる時、それはどうしても排除されなければ、人体の健康は保ってゆけないのである。
                それが人体における自然浄化作用であって、その排除されなければならない余剰毒素は、身体のいずれかの部分に集中し、そこから排出されようとするのである。
                病気とは、右の排除されようとして、ある部分に集中した毒素が、なおも外部へ排出されようとするその道程の苦痛である。
                故に、自然浄化による血液中の毒素が、膿汁となって排泄する場合、排泄に有利ならしめん為、その膿を溶解する必要がある。
                元来、膿汁は人間の体温及び、それより低い温度では、凝結する性質があるので、それを溶解せんとするには、どうしても体温以上の温度を要するのである。
                それが為の発熱である。
                又、膿の排除作用の工作が、痛みであるから痛みと熱に因って、毒素排出の目的が達せられ、健康は持続されるのである。
                又、肺結核痔疾等にて、喀血や出血するという理由もそうである。
                排除されなければならない余剰毒血が、その排除器能である肺又は肛門を利用する訳である。
                故に、肺からの喀血は、多量であればある程、浄化作用が良く行われるのであるから、何ら恐るる事なく、むしろ喜んで、放置しておけばよいのである。
                それの後は非常に、健康は増進される事実を、断言するのである。
                この理を知らない医学は、出血や発熱を以て病気悪化と誤解し、非常に恐れて、それを停止させようとする。
                その為に、折角の浄化作用が完全に行われないから、病気は長引き、健康は容易に恢復し難くなるのである。
                なおその上に、薬剤服用の為の毒血増加が、病気悪化に拍車を掛けるのである。
                これらの理によって、病気現象は決して健康を損ねるものでなく、反って浄化作用であるから、これを知ったならば、病気は恐るる所か、大いに喜んでいい訳である。
                故に、今日までの病気治療は、病気を治癒させるのではなく、治癒を遅延させ、病気を悪化させる結果に外ならなかったのである。」 (「新日本医術書」より)

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                「食餌の方法と原理」.2

                2020.01.11 Saturday 08:58
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                  又、近来病人に対し、芥子(からし)の様な刺戟的の食物を忌むが、これも大変な誤りである。
                  これも人体に必要あればこそ、神が造られたのであって、辛味、香味などの味覚は、良く食欲を増進させるからである。
                  又、今日の医学はある病気に対しては塩を制限し、ある病気に対しては糖分を禁止するが、これらも誤っている。
                  なる程、それによって一時は軽快に赴くが、持続するにおいて逆作用を起し反って身体は衰弱し、病気は悪化するものである。
                  次に咀嚼(そしゃく)について言わんに、良く噛む程いいという事は世間でも言い、又、多くの人もそう信じているが、これも間違っている。
                  これについて私は、実験した事がある。
                  今から二十年位前であった。アメリカにフレッチャーと言う人があった。
                  この人が始めたフレッチャーズム喫食法と言うのがある。
                  それは、出来るだけ能く噛む、ネットリする位まで噛めば良いというので、その当時大分評判になったものであるが、それを私は一ケ月程実行してみた。
                  最初は非常に工合が良かったが、段々やっている内に、胃が少し宛弱ってゆくのが感じられ、それに従(つ)れて何となく、身体に力が薄れたような気持がするので、これは不可(まず)いと思って、元の食餌法に変えた所が、忽ち力を恢復したので、この実験によって、良く咀嚼するという事は、胃を弱める結果となり、大変な間違いであるという事を知ったのである。
                  しからば、どの程度が一番良いかと言うのに、半噛み位が一番良いので、その実行によって、私の胃腸は爾来頗る健全である。
                  次に、食物についての概念を知っておく必要がある。
                  それは、魚でも、野菜でも、多く収れるものは、多く食うべきもので、少なく採れるものは、少く食うのがいいのである。
                  例えば、夏季、茄子は非常に多く生る。又枝豆は、夏季だけのものである。
                  故に、茄子と枝豆を、夏季は出来るだけ多く食うのが健康上いいのである。
                  茄子を食うと、痰が沢山出るというのは、体内の汚物を、排除する作用があるからである。
                  又、秋は、柿を出来るだけ食うべきである。
                  柿は冷えるというが、冷えるのではなく、洗滌をする力があるので、それが尿の多量排泄となるからである。
                  この理によって、特に秋の秋刀魚、松茸、冬の蜜柑、餅等などもよく、春の菜類、筍等もいいのである。
                  次に、梅干について、特に注意したいのである。
                  これは病人には絶対に不可(いけ)ないのである。
                  元来梅干なるものは、昔、戦争の際兵糧に使ったものである。
                  それは、これを食うと消化が悪いから、少量にして腹が減らないという効果によるからである。
                  故に、ハイキングなどの弁当用としては、空腹を予防するからいいのであるが、運動不足である病人にははなはだ不可なのである。
                  これは、酸味が強過ぎる為、胃の消化に対し、非常に故障となるものである。」 (「新日本医術書」より)
                   

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                  「食餌の方法と原理」.1

                  2020.01.10 Friday 09:18
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                    「今日、食餌の方法として医学で説いている事は、非常に間違っているのである。
                    その誤りの第一は、食事の時間を決める事である。
                    第二は、食餌の分量を決める事である。
                    食物の種類により、消化時間が一定していない事は、営養学者も認めている。
                    三時間で消化する物もあれば、五時間以上を要する物もある。
                    それ故に、もし、食事から食事までの間隔を一定すれば、腹が減り過ぎたり腹が減らな過ぎたりするという、実際に適合しない事になる。
                    故に、腹が減れば早く食い、腹が減らなければ延すこそ合理的である。
                    それと同じ意味で、分量も定めないのが本当である。
                    腹が減れば多く食い、腹が満ちれば少く食うのが合理的であり、それが自然であるから、その様に調節すれば、胃腸は常に健全である事は言うまでもない。
                    ちょうど寒いから綿入を着て、火鉢に当るので、暑くなれば浴衣を着、氷水を飲むのと同じ理である。
                    寒暑に対する調節や、その他の総てに良く調節をしたがる人間が、独り食物のみを調節しないで一定すると言うのは、いかにも不思議である。
                    これらは全く医学そのものの誤謬が原因である事に気付くであろう。
                    しかし、境遇上、例えば、時間的労務に服している者は、時間の調節は不可能であるから、せめて食物の分量だけでも調節するより致方ないであろう。
                    しかしながら境遇上、可能の人は是非そうしたいのである。
                    次に、今日の人間は食物について非常に誤った考を抱いている。
                    それは、何を食べると薬だとか、何を食べると毒だとか言って、食いたいと思う物も食わず、食いたくないものも我慢して食うという謬りである。
                    本来あらゆる食物は、造化神が人間を養う為に、種々の物を造られたのであるから、いかなる食物にも人体に必要な養素が、それぞれ含まれているのである。
                    そうして、その営養素は、科学や試験管で測定するよりも、もっと簡便な正確な方法がある。
                    それは、何であるかと言うと、人間自体がその時食べたいと思うその意欲である。
                    なぜ、意欲が起るか。
                    それは、その時その食物が肉体に必要だからである。
                    故に、これ程正確に測定される機械は無い訳である。
                    ちょうど、喉の渇いた時に水を欲する様なもので、それはその時水分が欠乏しているからである。
                    故に、食べたくないとか、不味(まずい)とか言うのは、その食物がその時必要でないからで、それを我慢して食えば、反って毒にこそなれ、薬にはならないのである。
                    満腹の時、いかに嗜好する物も、食いたくないというのは、今は、食物一切、不要という訳である。
                    故に、最も理想的食餌法を言うならば、食べたい時、食べたい物を、食べたいだけ食うのが一番良いので、少くとも、病人だけはそうしたいものである。

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                    「病気の原因と罪穢」.2

                    2020.01.09 Thursday 08:41
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                      この後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(み)よう。
                      人の眼を晦(くら)ました結果、盲になった二つの例がある。
                      以前浅草の千束町に、経銀という表具師の名人があった。
                      彼は贋物を作るのに天才的技術を有っており、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、
                      晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。
                      今一つは、やはり浅草の花川戸に花亀という道具屋があって、ある年静岡地方の某寺の住職が、その寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。
                      ところが、失敗して帰郷の旅費に困り、その御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。
                      その後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払ってしまったので、彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。
                      そこでその僧侶は進退谷(きわま)り、遂に花亀の軒下で首を溢って死んでしまった。
                      ところが、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、その後トントン拍子に成功して、その頃数万の財産家になったのであるが、晩年に至って盲目となり、しかも、その跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、ついには見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれながら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、その謂(いわ)れを父から聞かされたのであった。
                      これは全く僧侶の怨念が祟ったのに違いはないのである。
                      今一つは親の罪が子に酬(むく)った話であるが、それは以前私が傭っていた十七、八の下女であるが、この女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊(き)いてみた所が、以前奉公していた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。
                      なお訊いて試(み)ると、その下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨(ゴム)等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。
                      それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、その贋玉を高く売付けられた人の怨みが大変なものであったろうと思う。
                      全くその罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。
                      しかもその女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたろうにと、惜しくも思ったのであった。
                      今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。
                      十日以上も治療したが、なかなか良くならない。
                      不思議に思って、その老人の信仰を訊いてみたところ、〇〇様を二十年以上も信仰していると言うのである。
                      そこで私はその為であるから、それを拝むのを罷(や)めさしたのであった。
                      ところが拝むのを罷めた日から、少し宛(ずつ)良くなって、一週間程で全快したのであったが、これに似た話は時々あるのである。
                      正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでいると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、これは全く間違った神仏を拝んだ、その罪に因るものである。
                      これらの例によって察(み)るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、病気や災難で苦しみつつある人は、この後天的罪穢をよくよく省みて過(あやま)っている事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。
                      今一つは別項種痘の記事にあるごとく、陰性化せる天然痘の毒素である。
                      故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、この三つが主なるものであると思えば、間違いないのである。」 (「新日本医術書」より)

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