「喘息・病患と医学の誤謬」

2020.05.30 Saturday 07:18
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    「医学上、原因不明で、治癒不可能とされている病気に喘息がある。
    これも日本人に頗る多い病気であるから、詳説してみよう。
    喘息は、医学においては二種に分けられている。即ち心臓性喘息と気管支性喘息とである。
    即ち、前者は発作的であって、発作の起るや激しい呼吸困難を来し、重症にあっては呼吸切迫して、ほとんど死の直前に在るやと思う程で、実に視るに堪えないものがある。
    又後者は強烈頻繁なる咳嗽(せき)に苦しみ、不眠、食欲不振、呼吸困難等痛苦はなはだしいものがある。
    そうしていずれも周期的に、例えば冬季に限るとか、夏季に限って起るとかいう症状と、二六時中断えず苦しむのと両方ある。
    医療においては、注射によって一時的苦痛を除去するのが唯一の方法であって、全く注射するや、いかに激しい苦痛も、たちまち拭うがごとく快癒するのである。
    しかしある時間を経過すれば再発するので、患者は苦痛に堪えず、また注射を受くるのである。
    しかし、注射を繰返す毎に漸次その効果を減じ、やむなく頻繁に行うようになり、この結果一日二、三十本位、注射を行わなければならない患者もあるが、これらは全く注射中毒の重症に陥った者である。
    しかし、かくのごとき重症でも私は根治さしたのである。
    言うまでもなく、喘息の発作や咳嗽は、浄化作用であり、注射は勿論、その薬毒によって、浄化作用の一時的停止を行うのである。
    今日医学では喘息の原因について、諸説紛々(ふんぷん)としているが、私の知る限りの説では、あまりに原因に遠すぎ、ほとんど暗中模索的である。
    その説の中で、迷走神経の異状というのがあるが見当違いもはなはだしいのである。

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    「肋膜炎及び腹膜炎・病患と医学の誤謬」

    2020.05.29 Friday 07:14
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      次に、湿性は最も多く、化膿性は次で、乾性肋膜は極稀で、普通乾性肋膜炎と診断された患者は、私の経験によればほとんど肋間神経痛を誤診されたのである。
      ここで、肋間神経痛について説く必要があるがこの病気は非常に軽重があるのである。
      そうして肋膜炎と誤られ易いのも特徴である。重症は呼吸すらも痛みに堪えかねる位である。
      これも放任しておけば、発熱と喀痰によって、全治するのであるが、医療は湿布、氷冷、注射等のあらゆる固め療法を行うから、一時治癒しても必ず再発するのである。
      そうして、右に述べた三種の肋膜炎及び肋間神経痛の症状としては、深呼吸をすれば、痛みのある事と、息苦しいのが特徴で、その他盗汗(ねあせ)、多睡眠、眩暈(めまい)等がある。
      次に腹膜炎は、肋膜炎とよく似ている病気で、やはり湿性と、化膿性の二種あるが、乾性はないのである。
      湿性は、腹膜に尿が溜るのであるが、これも利尿剤を用うる時は、既存療法中にあるごとく、漸次悪性となり、しかも穿孔排水療法を行うに至っては、その逆効果がはなはだしく、一回、一回より悪性となり、且つ膨満はいよいよはなはだしく、遂には、臨月の腹部よりも膨大するものである。無論こうなれば生命は失いのである。
      次に、化膿性は腹部が余り膨大せず、むしろ固結性であるから、一見普通の腹部と思われるので、医診においては、相当重症であっても発見出来得ない事がある。
      故に化膿性腹膜を肺結核と誤診さるる事さえあり、全く、事実とは思われない程であるが、私はしばしば経験して、おどろいているのである。
      もっとも、化膿性腹膜に浄化作用が起った場合、その症状が、発熱、咳嗽、吐痰、食欲不振、衰弱、羸痩(るいそう)等であるから、肺結核と誤るのもあるいは無理はないかも知れないが、患者は不幸なものであると共に、医学の診断法を改善したいものである。
      従って、こういう患者を私は、腹膜と腎臓のみを治療するにおいて、肺結核が全治した例を、しばしば経験したのである。
      そうして、この化膿性腹膜は、誰もが多少とも必ずといいたい程あるのである。
      恐らく無い人はない位であろう。これは、指頭で診断すればよく判るので、それは臍(へそ)の付近にグリグリがあるので、これは膿の固結である。
      そうして時々中毒するような、食事も摂らないのに腹痛があったり、下痢するのは、この固結の浄化作用である事を知るべきである。
      又、人により、何らの苦痛がないのもある。これらの人に対し指摘すると、驚く事がよくあるのである。
      そうして腹膜に膿結のある人は必ず顔色が悪いので、私は、経験上、顔色によって、化膿性腹膜の有無軽重を識る事がある。
      そうして腹膜炎の原因は勿論、腎臓萎縮であるから、腎臓が治癒されない限り、絶対に治らないのである。」 (「明日の医術 第2編」より)
       

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      「肋膜炎及び腹膜炎・病患と医学の誤謬」

      2020.05.28 Thursday 07:12
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        「肋膜炎及び腹膜炎も相当多い病気である。まず肋膜炎から説いてみよう。
        この病気は医学では三種に別けられている。湿性肋膜炎、化膿性肋膜炎、乾性肋膜炎である。
        元来肋膜炎は、肺臓を包んでいる膜と膜との間隙に空虚が出来、そこへ水即ち尿が溜るのを湿性肋膜炎といい、膿が溜るのを化膿性肋膜炎といい、間隙だけで、水も膿も溜らないのを乾性肋膜炎というのである。
        この病気の原因は自発的と他発的とあって、他発的とは例えば胸部又は背部の打撲又は力業(ちからわざ)、器械体操のごとき労作等によって多く起るのである。
        自発的には何らの原因もなしに発生するのである。
        そうして、湿性の原因は、他発的にせよ、自発的にせよ腎臓萎縮による余剰尿が集溜する為である。
        そうして湿性は医療においては利尿剤の服用、及び穿孔によって排水するのであるが、利尿剤は逆作用が起って、多くは経過不良である。
        いずれかといえば、穿孔排水の方が経過が良好である。
        しかし、一旦治癒しても残存尿結のため再発し易いのである。
        次に、化膿性の原因は、脊椎カリエスとほとんど同様であって、脊髄から膿が肋膜へ浸潤滞溜するので、その膿量は割合多量であって悪性に至っては、医療は穿孔排膿を行い、数ケ月又はそれ以上にわたって、毎日相当量の排膿があるのである。
        しかしながら、最初からの化膿性もあるが、湿性が長時日を経て化膿し、化膿性肋膜炎になる事もある。
        そうして無穿孔にて安静療法を行う医師もあるが、その場合時日を経るに従って化膿は漸次固結し、胸部は板を張りたるごとくになり、この症状を診て医家によっては、肺が腐敗して無くなったというが、これは誤りもはなはだしいのである。
        そうしてこういう症状は、大抵は左右いずれかの肺部であって、膿結した方の肺は、呼吸が不能で静止しているから、健全肺の方が二倍の活動をせねばならぬので、自然呼吸が大きく、困難である。
        この際背部から視る時、一方の肺は不動で、一方は強動であるからよく判るのである。
        しかるに不動の方の膿結溶解を行うや膿は喀痰となって、旺(さか)んに排泄し初め、徐々として呼吸を営み始めるのである。
        これによってみても肺が腐敗して無くなったのではない事を知るであろう。
        以前、両肺が腐って駄目だといわれた患者を、私の弟子が治療して全治し、健康で活動しつつあるという事実もある。
        そうして化膿性は、医療ではほとんど不治のようである。しかるに、湿性にしろ、化膿性にしろ、発病するや、医療を受けず放任するにおいては、自然浄化によって溜尿及び膿は喀痰となって排泄され、大抵は根治するのである。
         

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        「腎臓及び糖尿病・病患と医学の誤謬」

        2020.05.27 Wednesday 07:05
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          独逸(ドイツ)において、万病尿酸説を唱える学者があるというが一面の真理はあるのである。
          故に、腎臓萎縮は完全に治癒させなければならないが、それは蛋白の排泄によってのみ治癒するのであるから、蛋白の排泄こそ、最も必要な訳である。
          右の理が未発見である医学は、蛋白の排泄を恐れるので、その為塩分禁止を行うが人体は塩分を摂取しなければ著しく衰弱する。
          又牛乳飲用も衰弱を増し、安静療法も同様で、この三種の方法を行う時、完全に衰弱するから浄化作用は停止さるるので腎臓部の微熱は無熱となり、従って、無蛋白尿となるからそれを治癒するように思うのである。
          しかし、真の治癒ではないから、一度腎臓病患者となるや慢性となり、一進一退の経路を辿(たど)り、全治する例は稀である。
          この理によって、速かに治癒させようとすれば、大いに運動をなし、高熱を出し、蛋白を多く排泄させる。
          それが最良の治療法で勿論食事は普通食でよいのである。
          次に、腎臓結核は極稀(ごくまれ)であって、誤診の方が多いのである。
          そうしてこの患者は医家においては左右いずれかの腎臓の剔出をすすめるのである。
          しかし、手術の結果は予後良好であったとしても、全身的活力は減じ、普通人としての活動はまず困難であるといえよう。
          そうして、医家は血尿によって結核の診断を下すようである。
          しかし、私の経験によれば、腎臓以外の原因による血尿もあるのである。
          それはいかなる訳かというと、多くは両鼠蹊腺(そけいせん)上部の微熱又は軽熱の腎盂炎(じんうえん)による発熱の為、輸尿管の付近が常に熱せられているので、尿が輸尿管を流下する際熱尿となり、それが尿道を通過するので、尿道粘膜の薄弱なる人は、粘膜が火傷するので、その火傷部の欠陥から血液が浸潤して血尿となるのである。
          これらは右の微熱部の毒素を溶解するにおいて、大抵数日間で容易に全治するのである。
          しかし、稀には真の結核性腎臓病もあるが、これは腎臓部に痛みがあり、それが膀胱に移行し、摂護腺から睾丸にまで移行するという悪性で、非常に痛苦があり、最も難症である。
          次に糖尿病であるが、これは医学上、膵臓(すいぞう)の疾患とされている。
          それは膵臓によって製出されるインシュリンなる成分が不足するのが原因といわれ、医療はインシュリン注射を行い一時は相当の効果はあるが、根本治療の方法ではないから往々再発し、全治は不可能である。
          そうしてこの病気に対し、医療では極端な食事の制限をなし、糖分を与えないようにするのは勿論、種々なる食物を摂らせるので、患者の苦痛と経済的負担は少なからぬものがある。
          しかも米食までも制限するから、日本人としては最も困る訳である。
          私の研究によれば、この病気は毒素溜結が、膵臓及び肝臓の下部を圧迫しているので、右の毒結を溶解するにおいて、完全に治癒するのである。
          そうして私が治療の際は、食物は、普通食によって治癒するのであるから、食物の制限など必要はないのである。
          しかし近来、医家によっては普通食を摂らせるとの事であるが、これらは覚醒した訳である。」 (「明日の医術 第2編」より)

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          「腎臓及び糖尿病・病患と医学の誤謬」

          2020.05.26 Tuesday 05:25
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            「次に、最も多い病気に腎臓病がある。これは急性と慢性とあるが、世間、腎臓病と称するものはそのほとんどが慢性であって、急性は極稀である。
            急性の症状は、四十度前後の高熱を出し、背面腎臓部の左右両方か又は一方が激痛を伴うのである。
            この場合激痛の為、腰を動かす事は不可能で、多くは身体を彎曲させて呻吟している。
            そうして蛋白は多量に尿と共に排泄さるるのである。
            これは自然治癒によっても、一、二週間にて順調に治癒するのである。
            慢性腎臓病の症状は、人も知るごとく尿と共に蛋白の排泄及び浮腫、腰痛、疲労感等である。
            そうして浮腫のある場合、尿量は減ずるのである。
            医家は蛋白の排泄ある程、病気昂進と解釈し、蛋白を無からしめようとして、塩分摂取の禁止をなし、又は牛乳の多量飲用をすすめ、薬剤としては利尿剤を用うるのであるが、これらの方法はことごとく誤謬であって、私の発見による原理を次に述べてみよう。
            腎臓疾患において、なぜ尿と共に蛋白が排泄せらるるかという事は、医学上未だ明かでないようである。
            それでは蛋白とは何であるかというと、実は然毒又は尿毒、薬毒が、背面腎臓部に凝結し、それが体温計に表われない程の微熱(掌を宛てれば良く判るのである)によって溶解し、一種の液体となって腎臓内に浸潤し、尿と共に排泄せらるるのであって勿論浄化作用の為である。
            故に、蛋白が排泄せらるるだけ病気は軽減するのである。
            その証左として、私が多くの腎臓病患者を治療の際その溜結毒素の溶解施術を行うや、微熱が発生して、一時は蛋白の排泄が非常に多くなるのであるが、漸次少量となり、終に全く無蛋白尿となって完全に治癒するのである。
            私が治療した腎臓病患者はいずれも同様の経路をとって完全に治癒したのである。
            しかし、ここに大いに注意を要する事がある。
            それは無蛋白尿であっても、腎臓の疾患がある事実である。
            医家は蛋白のみによって腎臓疾患の有無を断定するのであるから、無蛋白の場合は腎臓疾患はないというのである。
            故に、無蛋白で浮腫のある場合、その浮腫の原因が不明で診断を下す事を得ない実例を、私は度々聞かされている。
            これは医家も常に経験するところであろう。では、無蛋白腎臓疾患とは、どういう訳かというと、背面腎臓部に凝結せる毒素の浄化作用がおこっていない為である。
            故に、かような無蛋白尿患者は、有蛋白尿患者よりも悪性である事は勿論である。
            そうしてこの症状である患部は必ず無熱である事で、無熱であるから、凝結毒素が溶解しないから、蛋白が無いのである。
            ここで、注意しておきたい事は、腎臓部の凝結毒素が、いかなる悪作用をするかというにこの凝結毒素は、腎臓を圧迫するから腎臓が萎縮する。
            即ち萎縮腎となるのである。それが為、腎臓の役目である尿の処分が完全に行われ得ない。
            即ち全尿の処分が困難となるから尿の幾分は、腎臓外へ浸潤するのである。
            そうしてその余剰尿は、全身あらゆる方面に滞溜凝結するので、その最も凝結するのは肩部で即ち「肩の凝り」がそれである。
            又、腹膜部に溜結する事も多いので、これが腹膜炎となり、盲腸炎、胃病、喘息、肋膜炎、いわゆる肺結核、淋巴腺炎、歯槽膿漏、首筋の凝り、眼病、脳疾患等は勿論の事、あらゆる疾患の原因となるのである。

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            「胃疾患・病患と医学の誤謬」

            2020.05.25 Monday 06:18
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              しかし、胃痛には二種あって、凝結毒素が胃を圧迫する痛みと、凝結毒素が溶解する痛みとある。
              前者は満腹時に痛むのである。それは、満腹によって胃と凝結毒素と圧迫し合うからである。
              後者の場合は、溶解毒素が胃中に浸潤し胃壁の一部に滞溜している。
              それが空腹による胃縮小の為に痛むのであるが、重に前者は強痛、後者は軽痛である。
              胃痙攣の激痛は、前者に属し、第一浄化作用の極点に達した時即ち毒素凝結が最も硬化し、強度に胃を圧迫する為で、医療はモヒ(モルヒネ)の注射によって感覚を麻痺させ、一時無痛たらしめ、安静にして流動食を摂るのである。
              それが為、浄化作用が弱るから、毒素硬化は鈍り、又胃は、流動食によって弱化し、抵抗が弱まるから、一時小康を得るのである。
              又胸焼は、胃部の溜結毒素溶解のための局部的発熱である。
              次に、胃潰瘍の原因は、大部分消化薬の連続服用の為である。
              稀には大酒の為もある。それは消化薬が食物を柔軟にすると共に、胃壁をも柔軟にするからである。
              柔軟化した胃壁に食物中の固結物が触れると、そこが破れて出血する。
              それが胃潰瘍の出血であり、痛みを伴なうのである。
              そうしてその多くは、最初胃壁の一部に極微の欠陥を生じ、少量の血液が不断に滲出する。
              それが胃底に滞溜し、漸次増量するに従い、消化を妨げる事がある。
              又その出血が、胃壁から、外部へ浸潤し、胃以外の局所に滞溜し、又は腸の上部に滞溜する事もある。
              この滞溜が多量の場合、胃部より腹膜部にかけて膨満し、浄化作用によって嘔吐する場合、驚く程多量の血液を出すがその際の血液は、コーヒー色を呈し、熟視する時、多くの微粒状血液を見るのである。
              又この血液滞溜が幽門部を圧迫し、幽門狭窄を起す事もあって、その為嘔吐を促進するのである。
              これらによってみても、消化薬の害たるや、まことに恐るべきものがある。
              大酒の為の胃潰瘍は、実は大酒家は飲酒後又は飲酒中に、胃薬を用いる癖の人が多いので、そういう人は、酒の為よりも、胃薬の為である。
              それから極稀ではあるが、胃薬も用いず、痛み等もなく、何らの原因もなしに吐血又は小さな血粒が痰に混って出たりする事がある。
              この症状は医師も診断に困るのであるが、まず胃潰瘍に近い症状である。
              これはいかなる訳かというと、胃の一部に極微な腫物を生じ、そこから血液が滲出するのであるから、一時吐血等があっても放任しておけば自然に治癒するのである。」 (「明日の医術 第2編」より)

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              「胃疾患・病患と医学の誤謬」

              2020.05.24 Sunday 06:51
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                故に空腹即ち食欲があれば食い、なければ食わないというようにするのが本当である。
                従って、正しい食事法とは食いたい時に食いたいものを、食いたい量だけ食う…という、言わば自然である。
                そうして食いたいと思う物は、その時何らかの必要上、身体が要求している為であるから、それを食えばいいのである。
                又量も同一の意味で、必要なだけ即ち食いたいだけ食うべきである。
                又食いたくない物を薬になるとか、栄養になるとかいって我慢して食うのも間違であると共に、食いたい物を我慢して食わないのも不可である。
                又食欲があるのに喰べ過ぎるといって中止するのも不可であり、満腹して食欲がないのに、無理に詰込むのも勿論不可である。
                要は飽くまで自然でなければならないのである。
                しかし、右の方法が良いからといって、境遇上、何人も行う訳にはゆかないので、食事時間の一定している人は、その場合、量によって加減すればよい訳である。
                そうして食物は、空腹でさえあれば、いかなる物も美味であり美味であれば、栄養満点である。
                故に、右のごとき食事法を実行すれば、消化不良など絶対あり得べきはずがないのである。
                しかるに、不自然な食事法と共に、軽症の胃病発生するや、大抵は胃薬を服用するのである。
                胃薬は消化剤であるから、最初は消化を援け、苦痛は解消するから治癒したように思うが、真の治癒ではないから、また発病しまた服薬、又治癒しまた発病するというように繰返し、終には本格的胃病となるのである。
                元来消化薬なるものは、重曹が主であり、食物を柔軟にするのである。
                所が本来、胃の腑の役目は、嚥下した食物を胃自体の活動によって柔軟にするのにあるが、その役目を消化薬が分担するから、胃の活動力は漸次退化する。
                退化するから不消化になる。不消化になるから消化薬を服むというように、悪循環作用となって、胃は漸次弱体化するのである。
                加うるに一旦吸収された薬剤は、薬毒に変化し、胃中に還元されて胃壁外へ浸潤し、凝結するの
                で、その凝結が胃の圧迫材料となって胃はいよいよ萎縮し、鈍化し、弛緩するのでこれが即ち胃下垂である。
                又薬毒を解消すべく、自然作用は胆汁をしきりに胃に向って送入する。
                これが、胃酸過多症である。又胃部に溜結せる毒素の浄化作用が胃痛の原因である。
                 

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                「胃疾患・病患と医学の誤謬」

                2020.05.23 Saturday 06:26
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                  「日本人に最も多い病気に胃病がある。この病気は世人も知る通り種々の症状があるが最初の発病はほとんど軽症であるに拘わらず、療法や摂生の誤謬の為、漸次慢性症状となり、一進一退の経過をとりつつ、終に、悪性に移行するというのが大部分である。
                  故に、一度この病気に罹るや、軽症でも全治するのは極稀である。
                  そうして最初は消化不良、胸焼、胃痛等の軽い症状である。以下詳細に説明してみよう。
                  消化不良の原因は、先天的には然毒、後天的には尿毒、薬毒及び食事の方法の不適正等によるのである。
                  そうして始め、右の然毒又は尿毒が胃の外部に集溜し、それが漸次固結となって胃を圧迫する為、胃は萎縮して活動が遅鈍となり、消化不良となるのである。
                  次に、今一つの原因である食事の方法の不適正とは、近来、医学が唱える食物の量と、食事の時間を規則正しくせよという事で、これが非常な誤りである。
                  何となれば人間は機械ではないのと、食物なるものは不同であるからである。
                  それはどういう訳かというと、食事と食事との間の時間中、運動をする事もあれば、運動をしない事もある。
                  それによって食物の消化に差異が生ずるのは当然である。
                  又、食物においても、その種類によって、消化に遅速あり、一時間で消化する物もあれば、三時間以上費す物もある。
                  故に、規則正しくするにおいては、食事の時、空腹である事もあれば、未だ空腹にならない事もある。
                  空腹ならば食欲旺盛で消化は良好であるが、未だ食欲が起らないのに、時間であるからといって無理に食物を摂れば悪いに定(き)まっている。
                  それは、前の食物が停滞して居る上に、新しく食物を入れる場合、前の食物は腐敗醗酵しているから、その毒素の為に、新しい食物の消化は、妨げられるのである。
                  しかもそれが又消化しきれない内に、又時間が来たといって仕方なし食うという具合で、漸次消化不良となるのである。
                  故に正しい食事の方法とは、前の食物が充分消化し尽してから食事をとるのである。
                  そうして、前の食物が消化したか否かは、食欲といういとも正確な指針があるから間違いないのである。

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                  「病患と医学の誤謬」

                  2020.05.22 Friday 05:29
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                    ここで、手術について一言を挿(さしはさ)む事とする。
                    今日医学の進歩をいう時、必ず手術の進歩を誇るのである。
                    これは一寸聞くともっとものようであるが、実は大いに間違っている。
                    何となれば患部の機能を除去するという事は、人体における重要機能を消失させるので、他に悪影響を及ぼすのは当然である。
                    なるほど手術後一時的ある期間は安全であるが、浄化作用の機関が失くなるとすれば、毒素は他のあらゆる機能を犯す事になるからである。
                    それは不自然な方法が齎(もたら)す結果としてそうあるべきであろう。
                    最も高級で微妙極まる人体の組織であるから、たとえいささかの毀損も全体に悪影響を及ぼさぬはずはないのである。
                    これをたとえていえば、いかなる名画といえども、画面の一部が毀損さるれば、それは全体の毀損であり、価値は大いに低下するであろう。
                    又家屋にしても、一本の柱、一石の土台を除去したとしたら、直に倒れないまでも、その家屋の安全性はそれだけ減殺される訳である。
                    そうして手術は、病気の除去ではない。病気と共に機能を除去するのであるから、いかに理由づけようとしても、医術の進歩とはならないであろう。
                    私は真の医術とは、病気そのものだけを除去して、機能は以前のまま、生れたままの本来の姿でなくてはならないと思うのである。
                    そうして手術は外部即ち指一本を除去するとすれば障害者として恐れられるが、内臓なるがため直接不自由と外観に影響しないので左程恐れられないのであろう。
                    故に私は惟(おも)う、手術が進歩するという事は、医学が進歩しないという事である。
                    即ちメスによって患部を欠損させ治療の目的を達するというまことに原始的方法を以て唯一としているからである。
                    この意味において、今日称うる手術の進歩とは、医術の進歩ではなく「技術の進歩」であると、私は言いたいのである。
                    虫様突起について、私の説と同一の説を主張する現代医家のある事を私は最近発見し、快心に堪えないのである。
                    それはホルモン学界の権威である越智真逸医博である。同博士の著書に左のごとき記事が出ている。」
                    「虫様垂を以て全然無用の長物で、既に退化しつつある機関であると考えるのは果して自然を正しく理解せる賢き考えであろうか、恐らく吾人の知識が未だ浅薄で、神秘の宝庫を開き得ぬ為と信ずる。
                    余は自然は断じて無用有害の機関を吾人に与えないと確信する。」 (「明日の医術 第2編」より)

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                    「病患と医学の誤謬」

                    2020.05.21 Thursday 07:55
                    0

                      それらは、いかなる訳であるか。左に詳説してみよう。
                      そもそも、盲腸炎の原因は何であるかというとそれにはまず、盲腸なる機能の役目から説かねばならない。
                      身体不断の浄化作用によって下半身の毒素溜結個所として、盲腸部は上半身の扁桃腺と同じ様な意味である。
                      即ち、第一浄化作用によって盲腸部へ毒素が溜結するのである。
                      その際同部を指頭にて圧診すれば、大小の痛みを感ずるのである。
                      そうして重痛は毒素溜結が強度に達し、盲腸炎即ち第二浄化作用の近づいた徴候であって、軽痛は、毒素の溜結が軽度又は少量なる為である。
                      又その際盲腸部以外の腹部を圧診する時、痛苦があれば腹膜にも毒素溜結があって、急性腹膜炎合併症の前兆である。
                      しかしながらここで面白いのは、全身的に衰弱している時は第二浄化作用は起り得ないもので、第二浄化作用が起り得るのは活力旺盛であるからである。
                      故に過激な運動を行った後など起り易い事と、青壮年時に起り易いという事はそういう意味である。
                      又第二浄化作用が起るまでに毒素が溜結するには、大抵数年ないし十数年の長時日を要するものであるから、幼児又は小児にはほとんどないにみても明かである。
                      右のごとき理によるのであるから、盲腸炎発生の際は放任しておけば容易に治癒するのである。
                      即ち高熱によって溜結毒素が液体化し両三日経て下痢となって排泄せられ治癒するのである。
                      右の毒素溶解を医学では化膿といって恐れるのであるが、実は化膿するから治癒するのである。
                      即ち化膿した時は下痢の一歩手前であるから半ば治癒したと見なしてよいのである。
                      故に、盲腸炎発生時の養生法としては、一日断食、二日目三日目は流動物、四日目五日目は粥、六日目から普通食で差しつかえないまでに治癒するのである。
                      そうして自然療法による時には、激痛は半日ないし一日位軽痛二日間位で、四日目からは室内歩行が出来る位になるから、何ら恐るべき病気ではないのである。
                      そうして、盲腸炎の根本原因としては、右側腎臓部に硬度の毒素溜結があり、その為の萎縮腎による余剰尿が盲腸部に溜結したのであるから、右の毒結を解消するにおいて決して再発はないのである。
                      又、腹膜炎併発は盲腸に直接関係はないのであって、これは、腹膜部の毒素溜結が同時に浄化作用を起す為である。
                      その際医療は手術をすすめる事もあるが、これは予後不良である。故に医師によっては手術を避け、他の療法によって浄化作用を停止し、還元させようとするのであるが、それには非常に長時日を要するので、その結果は漸次腹部の毒素は固結し、板のごとくなり、その圧迫によって胃腸障碍を起し食欲不振となり、衰弱はなはだしく多くは斃(たお)れるのである。
                      これは、自然療法によるも、三日間位は激痛を堪え忍ばなければならないし、その間絶食のやむなきに至るのである。
                      しかし、医療によって生命の危険に曝(さら)すよりも、必ず治癒するのであるから、三日や五日位の忍苦は何でもないであろう。
                      そうしてその結果、猛烈なる下痢を起し、完全に治癒するので、普通二、三週間位で治癒し、勿論再発の憂は絶無である。
                       

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